余談ではあるが、犬山桜は優秀な女性である。
だからこそ、彼女はの遍歴や会社のことを調べ尽くした。彼女が最もを疑っていたのだ。いくら校長に「彼女のお父さんは、よくヒーロー活動にも協力してくれてね。信頼のおける人だ」と言われても。彼女はいい年の女だ。父親が善人だからと、娘も善い人とは限らない。
しかし結果として犬山はを良い後輩と認識している。会ってしまえば、何を考えていたのかと恥ずかしくなった。
犬山の“個性”は、犬。これが結構使い勝手の良い能力なのだ。戦闘にも、索敵にも、さらには危機察知にも優れていた。第六感、野生の勘というやつだ。
会って挨拶をした瞬間に、「ああこの子は大丈夫」と分かった。絶対に悪い人ではない。もしかしたら良い人でもないのかもしれないが、決して悪事が出来るような人物でない。には熱量がない。悪いことをするにはエネルギーがいる。それが無い。流されるように日々を過ごしている、平穏を愛する女性である。
さらに余計な話だが、犬山の“個性”は発動型や変形型ほど十分に意識して出現するでもなく、異形型ほど常に表に出ているものでもない。気を抜くとふっと現れることもあるものだ。だからいつもは気を張っている。家族にもほぼ見せないほど、徹底している。それをの前で晒すのは、元は彼女を「探るため」に自身の“個性”が必要だったからだ。
今現在となっては、犬山もには見せても大丈夫と思っているので、気を許しているということなのだが。
轟の前で出してしまったのは、峰田に怯えるを救うため已む無しに発動した。そこに轟がたまたま居合わせたため、“個性”が暴走した。タイミングが悪かったのであった。
そんなこんなで、は疑われては、ある意味落胆されている。
はいつも通り校門を通過した。未だにちらほら記者がいるが、彼女に気付く様子はない。便利な“個性”だ。校門辺り一帯の精神世界に干渉し、の印象を限りなく0にしているのだ。
シャーと自転車を走らせ、駐輪場まで行く。その途中でいつもは相澤と会うのだが、そのまま目的地に着いてしまった。そんなこともあるだろうと、気にも留めなかった。
のだが。
「あの、えっ、と、あー、何事、で、すかね…」
は目の前の綺麗な直角のお辞儀にたじろいでいた。
職員玄関で靴を履き替えていると、相澤が何やら焦った様子でやってきた。残像が見えるくらいの早足であった。目はいつものことながら血走っている。
お早うございます、といつものように元気に挨拶をしようとしたのだ。因みに彼女はいつも顔色の悪い相澤に、自分のなけなしの元気を与えるつもりで、はきはきと挨拶している。他の人の2割増しくらいだ。声のトーンも電話に出るくらいの高さのものになっている。
口を開こうとしたとき、相澤は深々と頭を下げた。は思わずポカンとしてしまった。
「も、うし訳ありませんでした!昨日はうちの生徒が迷惑を掛けました」
の頭には、既に昨日の出来事は無かった。だから一瞬何を言われたか分からなかった。回転の遅い頭で、相澤先生→ヒーロー科→A組→迷惑→私→昨日、とそこまで考えて、やっと答えが出た。
「ああ!あー、……いえ、私共も事を大きくしてしまって……」
彼の上体を起こそうと、わたわたと手を振る。の顔が、羞恥で赤くなっていく。時間が絶妙に良く、人が少ないのが救いだ。
「恥ずかしい限りです……」
今正に恥ずかしいのは私だと、言ってやりたかった。
「いえいえ、元気があって良いですよ。男子高校生なんてあんなもんです」
「……そう、…言っていただけると有り難いのですが…」
「あー、えっと、これ、どうぞ」
ごそごそと鞄を漁り、は相澤に某栄養補助食品を差し出した。余りにも相澤の顔色が悪いからだ。
「はい?」
「顔色、いつもより悪いです。これでどうこうじゃないですけど、お納めください」
暫く黙り来んで、の差し出した栄養補助食を見つめていた。が、相澤は急ににかっと笑った。一瞬の息が止まる。
「有り難うございます!頂きます」
「は、はい」
心臓に悪い笑みだ。心操もそうだが、普段の眠たげな顔が急に笑顔に変わると破壊力が半端ない。きゅうぅぅと、心臓が締め上げられるほどの衝撃である。母性本能やら、乙女心やらが顔を出す。
「あ、先生、これ、」
「はい?」
相澤は唐突にに茶封筒を差し出した。
***
「ふ、」
は思わず声を漏らした。慌てて口を手で塞ぐ。が、並んで仕事をしているので、意味はなかった。
「どうかしたぁ?」
「え!はい、あ、はい…」
今日の仕事は一年生の仮ヒーロー名を入力することだ。相澤が今朝に手渡したのは、ヒーロー名の記入用紙だった。生徒のデータは逐一更新される。その入力や管理の役目を担っているのが、図書室である。
未入力の紙の束をトントンと机で揃える。
「面白いよねぇ、あれやこれやと面白い読み方させようとしてくるもんねぇ」
は頷いた。
データは学内の関係者、提携しているヒーロー事務所や企業、一般人の順に閲覧情報が絞られていく。ヒーロー名は広く公開されている項目の一つだ。分かりやすく、呼びやすいのが良い。
入力を始めて分かったのだが面倒くさい。普通には読めない漢字に、片仮名で読み方が加えられている。本当によく考えるものだ。自身の黒歴史を思い出すので、何とも言い難い。漢字にフリガナなのか、カタカナに振仮名なのか。
それにしてもショートは無いなと思うのだ。いや、漢字を見れば、あれほどそれらしい名前もないが。実はエンデヴァーは物凄く名前を付けるセンスが有るのではないかと、は多いに感心した。彼のヒーロー名にしてもそうだ。人柄が出ている。音も良い。響きは強そうで格好良いが、意味からすると謙虚で好感が持てるのが憎い。その名を冠する船舶や宇宙船などの軌跡を辿ると、更に彼の有り様と照らし合わせて感慨深い。
轟焦凍の姉の名は冬美というらしいのだが、母似というので美しい女性なのだろうし。“個性”からしても、成る程分かりやすい名である。
で、そのくだりを経てショートなのだ。
犬山の手前ディスれないのだが、こっ酷く批評したい欲に駆られる。
「しょーとくんの見ますか」
「ん!?見る」
回転式の椅子をくるんと回して、犬山はに向き合った。入力したばかりの記入用紙を見せる。すると、
「ふっ」
と笑った。
「ごめんなさい、んん゛っ。これ見て笑ったのね、ちゃん」
「感性が一緒で、ホッとしました。」
「可愛いわねぇ」
「そっか、それ狙いですかね、多分違うでしょうけど」
「彼、天然だものね。ふっ、ぶふぉっ」
大層ツボにはまったらしい。遂に完全に噴き出した。
字が微妙に上手くないところも愛嬌がある。知れば知るほど、似ていない親子である。ただ方々に雑なところは割と似ている。
と言えば、あのぽやぽやした顔は一気に冷えるのだろう。その顔が更に父を彷彿とさせるとも知らずに。
それにしても、ショートはないなと思うのだ。
「ふっ…」
****
某日。雄英は土曜日も授業があるので、の休みは日曜日とどこかの平日だ。一応週休2日になっている。シフト制の仕事をしている友人と、伝統工芸の実家を継ぐべく修行中の友達三人で遊びに出ていた。
はそれほど事件に巻き込まれる方ではない。この世界において犯罪者の姿を見ることは珍しくないのだが、案外と被害には遇わないものだ。それでも遭遇するというのなら一人の方が良い。自分一人逃げるのはそれほど大変でもないのだ。の“個性”を使えば。だが、そうタイミング良くはいかない。
その日のお出掛けはランチから始まり、足が痛くなるまで歩き回り、休憩がてら少し洒落た喫茶店に入り、ほっこりしてあとは帰るだけだった。夜は別の用事があるのだというので、夕飯は取っていない。お腹空いたし帰るかー、というときだ。疲れて脳みその回転が悪くなっている時分。
悲鳴や怒号、爆風、人間の本能という本能が渦巻く光景が急に目の前に現れた。逃げ惑う人々。敵だ。それも複数の場所で同時多発的に。たちにそれを察知する余裕はなかった。とにかく危険が迫っているということだけが分かった。
人の波に逆らわずに逃げようとしたとき、一際大きな悲鳴が聞こえた。振り返ると異様な光景が広がっていた。若い女ばかり血だらけで倒れている。
は足は地面に縫い付けられたかのように動かない。誰かに背を押してもらっても倒れるだけだろう、それほどに足がすくんでいた。友人も座り込んでしまっている。逃げねば。逃げなければ。敵は肉眼で確認できるほどに迫っていた。大柄ないかにもな男だ。尖ったナイフのような突起物がいくつも体に生えている。心臓が縮こまる。ほたりほたりと汗が落ちる。
その時だ。見知った炎が目の前を通りすぎた。意外にも器用に人を避けて敵に向かっていく。雄叫び。熱風、地響き。はほっとした。
こんなに頼りになる背中はない。安心して力が抜ける。座り込もうかという時。視線の端に向かってくる影が見えた。ヒーローではない。しかしこんな時にヒーロー以外の人間が駆け寄ってくるわけがない。
「っ、エン」
エンデヴァーの名を呼ぶ声は何とか届いた。彼が振り向くのが分かった。大丈夫だと安堵したのも束の間、彼の目前の敵が突っ込んでくる。すかさず彼は敵と組み合った。スパッといくつもの傷ができる。敵の体から生えたナイフが刺さり、肉を裂いた。血が吹き出す。ひゅっと友人の喉が鳴った。ごう、とエンデヴァーの炎が一際大きくなった、
は逆サイドから向かってくる敵に目を向けた。それすらもやっとの思いだ。無防備に横から襲われるよりは良い。そんなことを考えたわけでもないが、本能的にそうしていた。
向かってくるのは女、辛うじて女と分かる程度。変わった成りをしている。見た目では一般人と敵の区別など付かないが、目が犯罪者のそれだった。悪意にまみれている。恐怖感が襲う。寸でのところで踏ん張っていた足の力が抜ける。死ぬ、と思ったとき、炎が女を焼いた。は「あ」と思わず声を上げた。炎はすぐにふっと消えた。どしゃりと女は倒れた。起き上がる様子はないが、背が上下に動いている。気を失っただけのようだ。
はぁ、と安堵のため息を吐いた。“の中に居候している誰か”が、敵の女を焼いたのだ。恐らくは殺すつもりで。人ではない彼らには、の常識は通じない。人が死ぬということに特別な感情はない。生物は生きて死ぬ、死んで土になって、それが自然のことだからだ。
エンデヴァーの方も決着がついていた。彼の炎があちらこちらで燃え盛っていたので、誰も気にした様子はない。誰の出した炎かなど見ただけでは分からない。
心臓は未だにばくばくとうるさいが、段々と冷静さも取り戻してきた。には戦闘力はないし、そして臆病だ。それでもの中に居候している“何者か”がいる限り死ぬことはない。依り代が無くなれば困るのだろう。それに彼等には自分の目にかけている存在を、好き勝手されるのを酷く嫌う性質がある。それはの心に余裕を持たせた。
抱き合っている友人二人に地面を這って近付く。周りを見る余裕がほんの少し出てきたといっても体は正直で、立ち上がることはできなかった。
「怪我、無い?」
二人はこくりこくりと頷く。ヒーローたちがそろそろ到着しだしている。はキョロキョロと周りを見回す。先程まで硬直していた筋肉が少し軋むが、痛めたわけではなさそうだ。ふとエンデヴァーと目があった。ペコリと会釈をすると、近づいてくる。
ただでさえ大きい彼だ、座り込んでいるはぐっと見上げる必要があった。
「大丈夫か」
「はい、怪我は……大きいのはないです」
ちらりと友人を見ると、血が滲んでいた。
「そうか」
は友人に、立てるか、擦り傷は痛むかと聞いていく。雄英に勤める際に研修があり、ある程度の対処は学んだのだ。それをエンデヴァーに伝えると、近くにいた若いヒーローに声をかけた。駆け寄ってきたヒーローに状況を伝え、彼は去っていった。残党がいないか、この機に乗じて犯罪に走るものがいないかパトロールを続けるようだ。血だらけだが、気にした様子はない。彼にとっては日常茶飯事なのかもしれない。やはり相容れないなと、は息を吐いた。
一番怪我の大きかった友人をヒーローに預けた。倒れた拍子に足を強打し、さらにぶつけた先の素材が悪く裂傷になった。歩くのもよたよたで、そのまま電車に乗るのも憚られる。付き添いは要らないというので、お言葉に甘えた。どっと疲れた。
「エ、エンデヴァー格好良かったねぇ…」
と、友人は呟いた。あんな目に遇っておいて、お気楽なものだ。いや、そこが彼女の良いところだ。
そもそもこの世界の住民にとって犯罪者との遭遇自体は珍しくない。だからこそヒーロー業が成り立っている。慣れとは怖い。ヒーローが助けに来るから大丈夫、という風潮が強いのだ。
果たしてそうだろうか。犯罪者がいれば、必ず被害者が出る。はコンクリートに広がる血を見た。ヒーローが到着する前の第一被害者にならないことを切に願うばかりだ。
被害の酷かった場所を眺めてが何か思案しているのを、エンデヴァーは見ていた。
「大根役者め」
と彼は鼻で笑った。
****
お気楽は私もか、とは思った。刃物男の事件から数日しか経っていないのだが、街に繰り出していた。それも現場から目と鼻の先。
母の店の定休日との休みはあまり合わない。だからこの日は前々から約束をしていたのだ。それに街はいつもと変わらない様子である。むしろ一度敵の騒ぎがあると、パトロールのヒーローが多少増えるので一番安全かもしれない場所だ。それを見込んで、事件現場から離れたところで見回りをするヒーローもいるらしい。
街が一望できる展望台のカフェ。ふわっふわのスフレケーキにフォークを刺す。口の中でしゅわしゅわの口どけ食感を味わう。幸せだ。
今頃ヒーロー科の生徒たちは職場体験だろう。犬山情報によれば、轟はエンデヴァー事務所に行っているようだ。父親としては失格でも、ヒーローとしての実績は申し分ない。彼も荒事を請け負うタイプのヒーローになるのだろうから、その選択は正しい。が、あの親子の関係性を知っている者からすれば、大層な決断だったろうと分かる。
体育祭から何か変化があったようだ。推薦入学の試験の際に見た不景気そうな顔は今はない。雰囲気も柔らかくなったような気がする。
景色を楽しもうと、は外に目を向けた。何とはなしの行動だったのだが、ごぉと炎が上がっているのが見えた。沈黙していたスマホが震える。ほぼ同時に、周りのスマホも次々とけたたましい音を上げた。敵警戒警報だ。詳しい情報が通知される。続けて雄英の職員連絡網が入る。避難警報でないので、距離は離れていそうだ。しかし高台にいれば騒ぎが見える程度の距離。油断はできない。ざわざわと周りが騒ぎ出す。
「皆さん!落ち着いてください!」
「焦らないで!」
と複数の声がした。目を向けると、見知った二人のヒーローが手を上げていた。全国的に知られているヒーローではないが、この辺りではそこそこ顔が売れている。地域密着型だ。女性と男性のコンビ。的確に指示を出していく。もそれに従うだけだ。入り口付近の客から動いていく。勿論ちゃんと代金を支払ってだ。
「お母さん、これ、早く食べちゃおう」
順番が来る前に食べてしまわなければ。結構お高いのだ。たまには奮発しようと思ったのがまずかった。
「そうね、あー、ゆっくり食べたかったなぁー」
と、こちらもお気楽。それもそのはずだ。の母は雄英のヒーロー科に在籍していた。途中で普通科に編入したらしいのだが、入学できただけでも凄い。それだけの能力と度胸があるということだ。
は口にケーキを運びながら思った。生徒たちが巻き込まれていなければ良いが、と。けれどもトラブルを呼び込むのがヒーロー科。寧ろ自分から進んで突っ込んで行く。それができてこそヒーロー。
それに先ほどの大きな炎はエンデヴァーだろう。よく威嚇のためにああやって火柱を上げる。は以前あれを間近で見てしまい、軽くトラウマになっている。という話は置いておいて、つまりは少なくとも轟青年はあそこに居合わせている。
いや、と首を振った。誰が巻き込まれていようと、今のには関係の無いことである。彼女に何ができるというのでもないのだから。それにヒーローを目指す人間を心配するのも失礼というものだ。
一端の教師のようなことを考える、とは少しおかしかった。この契約がいつ切れるとも分からない。産休を取っている彼女は、出産後落ち着けば復職するだろう。もし育休と言って、もう少し休むのだとしても数ヶ月延びるだけの話だ。だからこそ正社員としてではなくを入れたのだろうし。
はアクティブな方ではない。前の仕事を辞めるときも随分と時間がかかった。どれだけ不満があっても、中々辞められないものだ。職を探すのも労力がいるし、新しい環境に慣れるのもそれなりに大変。長期の人間関係を求められないことは長所ではあるが、それでも転々とするのはしんどい。長いスパンで働きたいものだ。と、周りの喧騒とは一線を画して、はそんなことを思った。
と、それが昨日の昼時のこと。は寝ぼけ眼で父の読む新聞を覗き見た。父も随分と忙しかったようだ。帰ってきたのは深夜だった。にも拘わらずよりも早く起きている。タフネスだ。
「おはようお疲れ様。大変だったって?」
「おはよう。大変だった大変だった。もう、あちこちから電話が鳴ってね。スタッフにも珍しく無理を言ったよ。まぁ、私よりも大変だった男がいたみたいだけどね、」
にやりと父は笑った。彼がこういう物言いをする人物は一人だ。
「エンデヴァーさん?どうかしたの」
「ふっ、……何やら減給と半年の教育権剥奪処分を受けたらしい。生徒の監督不行き届き」
父がエンデヴァーを目の敵にしているのはいつものことだ。というよりは、好きすぎて苛めたいと言うような幼稚なものなので、最早誰もそのことに突っ込まない。同級生だったというのだから、さぞやエンデヴァーは当時気を揉んでいたに違いないと、哀れにも思う。
それよりもその息子だ。轟がどうかしただろうか、は首をかしげた。もし酷い状況ならば、連絡網が回ってくるはず。心配することはないのだろう、は悠長に尋ねた。
「ヒーロー殺し。遭遇させちゃったんだろ」
「……………それって、エンデヴァーさんよりも、学校側の責任じゃない、か?」
は顔を歪めた。
「あら、まだいたの。時間大丈夫?」
に合わせてたら遅刻よ、と母が言った。
「げ、」
父は冷えてしまったコーヒーをごくごくと飲んで、片付けをに押し付けて部屋を出ていった。は溜め息を吐いて、食器を流しに運ぶ。暫くすると、ガチャンと玄関が閉まる音がした。
「忙しないね」
「昨日の件で、警察とか協会とかと会合があるんだって」
「はぁ、大変だ」
は他人事のように呟いて席についた。
実際に他人事で間違いないのだ。父はには継がせないと言っており、本人にもそのつもりが無いのだから。
モグモグと咀嚼しながら、は考えた。
今回の体験学習はどうにもよろしくない。ヒーロー事務所に行って、個性を使えない生徒たちが危険に晒されることは、想像に難くない。
「お母さんも体験学習行ったの」
「行ったわよ」
「個性使えない状態で何する感じ」
「……うーん、事務的なこととか、あとは、見回りとか?今思えば、こわいわよねぇ。一応はずっと監督のヒーローと一緒だから、よっぽどの事がないと、危険には晒されないようにはなってると思うけどね」
「へぇ、……」
その状態で何が不行き届きだったのか。何かがもやもやとしている。霞がかっている。は新聞を見た。勿論一面にでかでかと記事が載っている。事件の現場は地図付きだ。はて、こんな所で彼の火柱は燃えていただろうか。頭の中がクリアになるのを感じて、しかしは見えそうになった何かを振り払った。知らない方が良いことはたくさんある。いや、知らないで幸せなことの方が多いかもしれない。例えば昨日食べた冷凍食品の添加物の危険性だとか、人の心の中だとか。
「も、あんまりのんびりしてたら、遅刻するわよ?」
「んー、んん、うん」
きっと何かの真相に近付いていた。自ら知ることを拒んだそれは、また闇の中に沈み込み、の頭の中でもやもやとスッキリしない痼になった。しかしこれで良いのだ。と、言い聞かせて、は立ち上がった。
****
学校はほんの少しざわついていたが、いつもと変わらないようにも見えた。つまりはその程度だということだ。はっきりと混乱しているというでもない、事件のことを知らなければ、本当に通常通りなのだ。小耳に挟んだ生徒たちの話題がヒーロー殺しのことだというだけ。讃える声が聞こえるのが耳障りという以外、に害もない。
こういうときに限って情報通の犬山は休み。突発的なものでなく、犬山の休みはいつも月曜日なのだ。ただでさえ嫌な月曜日、更に心細さがプラスされるのだから、はこの日が一番嫌いだ。
犬山がいなければ、新しい仕事はない。いつも通り犬山のレファレンスのメモ書きなどをデータベースにまとめるくらいのものだ。早々に片がついてしまい、は手持ち無沙汰だった。難解な質問も、空気を読んでに持ってくる生徒はいない。こんな日に限って発目も来ない。は何か本を読もうと立ち上がった。
あ、と声に出しそうになって、はグッとこらえた。
本棚が規則正しく等間隔で並んでいる、ある一角。意図せず見慣れてしまった赤と白の髪が見えた。キョロキョロと周りを警戒している様だ。は“個性”を使っていなくても気配が薄いので、気付かないのも無理はない。警戒と言っても敵へのものでなく、本気でもないのだろう。はああと納得した。きっと犬山を避けているのだ。先日彼女が死にそうな顔と声で嘆いていたので間違いない。峰田を発端としたあの事件の日の事だ。轟は余程怖い思いをしたらしい。確かに犬山の様子は尋常でなかった。具体的に言うなら、発情したオス犬がメスに襲いかからんとしているような。
は踵を返した。しかし、
「あの…」
低いが、よく通る声がを呼び止めた。足を止めてしまったので、気付かないふりはできない。意を決して振り返った。
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