きっとこの男のことを総ての人が勘違いしている、太宰治はそう思っている。

「おはようございます、顔色が、…優れないように思います」

心配そうな声。太宰が司書室に入るなりそう言った。

「別に、…」
「今日はお休みされますか」
「……仕事くらい、するし」

年若い男は、それでももう20は過ぎているのにセーラー服を着ている。白地に紺色の襟とスカート、ラインはまた白で、えんじ色のタイが輪っかに通っているだけ。リボンになっておらず、その辺りの拘りはないらしい。
常に釘の刺さったバットを持っているが、攻撃的な性格ではなく、穏やかな好青年である。伸ばした髪を後ろの少し高いところで一つに括っている。風呂上がりは下ろしており、肩よりほんの少し長いくらいで、織田よりも随分と短いものだ。
血色は良く、時折正岡たちと野球に打ち込んでいたり、ちびっこたちとかけっこをするなど、快活な男だ。非の打ち所のない男。

「先生、」

はっとした。

「俺の、顔に穴が開いてしまいます」

照れたようにはにかむ顔はまるで乙女のようだ。広い肩幅は、女装をしていたって男と分かるのだが。

「不躾に見て悪かった」

男はにこりと笑った。


***


助手と言っても、ぴったりと司書に引っ付いているわけではない。昼食は別だし、書類整理やら荷物持ちをするくらい。場所を告げれば、何処で何をしても良いという自由っぷりだ。
誰にでも人当たりの良い彼は、きっと本当はそれほど人を好ましく思っていないのだ、太宰は確信している。

「あのバット、何なんやろな〜」
「永遠の謎、だろ。太宰は知ってるか」
「は、なんで」

織田と坂口は顔を見合わせた。

「いや、うちって、助手ほぼ固定やんか」

坂口はうんうんと頷いた。

「…別に仲良いわけじゃないの知ってるでしょ」
「まぁ、今サボってっしな」
「いやいや、失礼なこと言わないで。あいつがこれで良いって言ったんだよ」

二人は笑った。

「俺が思うに、あれは司書の鬱憤が詰まってると思う」
「それ、江戸川センセが言ってはったで〜」
「なんだよそうだよ。右に同じってこと」

太宰は二人の話をふんふんと聞いていた。それ外れ、と思いながら。太宰は頬杖をついて、目を伏せる。見目だけは良いものだから、まるで絵画のような佇まいだ。

「先生、少しお手伝い、良いですか」

いつものように、にこっと微笑んでやって来た。快活で、しかし騒がしくない、良い案配の声だ。やはり手にはバットが握られていた。そのバットを手放せば、きっと太宰の仕事は一つ減る。力は彼の方が上なのだから。

「何、荷物運び?」

困ったような顔で、しかしやはり微笑んでいた。


太宰は持ちにくい備品を、司書は書類を持って連れだって歩いている。太宰は司書の後ろ姿を見た。身長は太宰よりも大きい。というよりこの図書館の中で、彼は大きい方なのだ。

「そのバット、秘密なの」

ほんの少し肩が揺れたように見えた。もしかしたら歩いているために揺れただけなのかもしれなかった。

「そういうわけではありませんが、何故先生は話さないんですか」
「質問に質問で返すのはどうなの」
「すみません」
「……本当に思ってる?」

くるりと急に司書は振り返った。

「また入れときます。先生は苛立っておられる」

バットに詰め込まれているのは、司書の感情ではなく、他人の悲しみや怒りだ。
この司書の心には毛が生えている。ボーボーで、傷つく隙はない。喜怒哀楽はちゃんと存在しているが、怒と哀の反応が鈍い。つまり彼は殆ど怒ったり悲しんだりすることがない。人が何故怒っているのか、なぜ悲しんでいるのか、それがうまく理解できない。正しくは理解はできても共感ができない。同情ができないなら、それは彼の中には残らない。
だから他人の喜怒哀楽を、反応を見て逐一このバットに詰める。記憶装置なのだそうだ。こうすれば悲しむ、このときは怒っている、といったことを全て、彼はこのバットに収めている。

「そんなに他人の感情を知ることは必要なことなの」
「はい」
「どうして」
「それはきっと先生の方が詳しいですよ」
「でも、」
「はい」

司書は太宰の言わんとすることが分かっているようだった。

「他人が悲しんでいたって、それを見て悲しいと思うほど、心が動かないんなら、別に構わないだろ。知らなくても」
「そこまで、分からないでもないんですけどね」

きっと、彼が分からないことで傷つく人間がいる。しかしそれが悲しいことなのだという心がないのなら、気付くことができないのなら、それは気にすることではないのだ。
司書はまた歩き始めた。殆ど変わらない彼の表情だが、見えないと不安になってくる。

「幸せな、世界になって欲しいとは思っています」
「そんなの、」
「勿論、分かっています」

太宰は黙った。

「でも、悲しい顔をしているより、穏やかな顔をしている方が、俺は好きです」

揺らがない司書の声に、太宰は溜め息を吐いた。

「ねぇ、」
「はい、」
「顔が見たい」

司書は無言で振り向いた。

「泣いていると思いましたか」
「お前、泣けるの」
「痛みは感じますよ」

成る程と頷いた。



司書室はさっぱりとしている。フローリングに仕事机、応接用のローテーブルとソファ。窓には質素なカーテン。棚と本棚があるだけ。

「これ、ここで良い?」
「はい」

ローテーブルに備品を適当に並べ置く。そして、どかっとソファに腰掛けた。すると司書は直ぐに茶を太宰の前に置いた。

「ありがとう」
「いえ、それはこちらの台詞です」

仕事じゃないかと言おうとして、やめた。この男は助手を使う気はないのだ。助手の手当てがあるため、単に何もさせないと角が立つから適当な仕事を与えているだけだ。それでも常に司書に場所を伝えていなければならない手間を皆嫌うので、文句を言う者はいない。

「ねぇ、ずっと気になってたんだけど、あれって、」

太宰の視線の先のものを、司書も確認した。はちみつのステッカーが貼られた大きめの瓶だ。

「ええ、」
「…横領じゃないの」
「そうですね」
「………レプリカでなくて?」
「本物ですよ」

司書はことりと先程から話題になっている物を太宰の前に置いた。中にはきらきらとした石が入っている。ここでは様々な素材になっている物だ。きっと太宰の体もこれで構成されているのだろう。

「……これ、ここにあっても良いの」
「ダメでしょうね」
「っ…結論だけ」

飄々と答える司書は自分から話そうとはしない。
全身が粟立つ。恐怖だ。得体の知れないものに対する本能的な。

「これは、先生ですよ」
「は」

太宰は詰めていた息を吐いた。というよりは漏れた、という方が正しい。
司書の顔を見ても、表情は穏やかなままだ。逃げ道を探すように、意識を巡らした。ドアは一つ、奥の正式な応接間は袋小路、窓は光を入れるだけで、開閉式ではない。

「取って食おうというのではありません」

こくりと喉を鳴らす。

「でも、気持ちの良い話でもありません」
「…だろうね」

にっこりと笑う顔はきっと太宰を安心させるためのものだ。でも今は恐怖を煽るものでしかない。

「結論だけ、でしたね。俺は先生が好きです」

息が止まった。

「ん?うん、え、おれ?」
「はい」
「…なんで」
「……私は、先生の前で先生のどこが好きかを羅列すれば良いんですか」
「いや、……」

と言ってからも、ほんの少し逡巡があった。

「遠慮しとこう」

はっきりと言い切り、太宰は茶を飲み込む。

「毒は入れていませんが、」

ごふっ、と吐き出した。

「媚薬が入っていたかもしれない」
「っこほ、」
「すみません、冗談です」

でも、と続けた。

「私を、信用しない方が良い」
「信用は、元からしてない」
「そうなんですね」

太宰は口を拭って、立ち上がった。そしてぐいと彼の襟首を掴んだ。力も、きっと喧嘩だって司書の方が強いだろう。それでも太宰は彼が反撃することはないと知っている。

「傷付けよ」

静かに言った。しかし目は怒りで揺れている。その視線を司書は受け止めた。普段と変わらぬ様子で。

「無理ですよ」
「俺の!一挙一動にっ、」

      動揺したら信じる
吐き出された声は思いの外力がなかった。司書の顔を見れずに俯いた。
段々冷静になってくる。何も言わない司書を疑問に思い、顔を上げた。

「あ」

と言う間だった。掴んでいた手は思わず離してしまった。その隙に腰を抱き寄せられ、頭を抱え込まれた。逃げようともがくことさえ出来ない。ピタリとくっついた布越しの体温を互いに分け合う。快活なのにどこか機械じみて見える男の温度は、しかし頭がくらくらするほど高かった。じわりと顔に熱が集まり出した頃、唇の上を舌がぬるりと這ったのを感じた。はぁはぁと荒い息の為に開いていた太宰の口にするりと滑り込む。舌が絡む。
口内を堪能されているのを分かっていて振りほどけない。そのうちに脳がじんわりとと痺れてくる。舌先から、脳天を突き抜け、腰に響く。

「ぁ、」

と出た声は、先程とは違い艶めいていた。主導権を完全に握られるようなキスはあまり経験がない。鼻に抜ける自分の声にも興奮する。

「ふ、ん、ぁ」

つぅ、と唾液が溢れた。

「んぁ?」

急に放されて、熱が恋しい。とろりと溶けた顔で司書を見返す。

「先生、俺は感情が無いわけではありません」
「ん、」
「美しいものを美しいと思う心もあります」

司書は太宰の顎に伝った唾液を指の平で拭う。そしてがしりと両手で太宰の顔を包み込んだ。身長差から、太宰は殆ど真上を見上げる形になる。

「美しいものを、自らの手で手折りたいと、思う男の欲もあります」
「ん、そう、だ、な…」

鼻がくっつきそうなくらい至近距離で見つめられて、たじろぐ。顔を固定されているので、視線を反らすくらいしか出来ない。

「一目惚れでした。まだ何者かも分からずあどけない顔をしていた先生を、自分のものにしたいと思いました」

心の中を丸裸にするような真っ直ぐな視線に、先程の情熱的なキスを思い出す。息が上がりそうになるのをぐっと堪える。

「太宰治だと認識したあとの自信に満ちた態度で、それでも貴方の目は幼気で、寂しげで、不安げで、コロコロ変わる表情も、その不安定な心も、全部、愛しい」

ため息を吐くように囁かれる言葉はほとほとと太宰の心に降り注ぐ。

「信じてください」
「信じるだけで良いの」
「あまり、…多くを望むと、きっとバチが当たります」
「謙虚なことだね。でも、色恋で、謙虚さ、ね」

太宰はにんまりと嗤った。その笑みはどこか少女を思わせた。大人を小馬鹿にするような、そして無知ゆえに捕って喰われに行くような、そんな。
勿論太宰は子供でも、おぼこい乙女でもない。

「それは、私は期待しても良いということですね」
「さて、」

と、言いながら、太宰はソファに背を凭れさせた。無防備に身を明け渡すような格好だ。手も両方とも投げ出されていて、身を守る術を捨てたようだった。

「どういう、心づもりで?」
「据え膳を前に、余裕だな」
「私に、先生の心は読めないものですから」
「…俺もお前の心は読めないんだけど、」

不貞腐れたように、太宰は目を伏せた。
司書はその顔が好きだった。芸術品のように洗練されている。余りにも美しく、儚げで。それを自分の手で壊してやりたいと、奥底で思うことは少なくない。司書はサイコパスではない。人並みに良い人と思われたい欲求はある。しかし、

「お前の寵愛を受けてみたいと思った」

司書は困ったような顔をした。太宰にとって、その反応は心外だった。普通は泣いて喜ぶのではないか。太宰は顔をしかめた。司書は黙り込んで何も言わない。

「あの、!さ…」

痺れを切らして立ち上がろうとした太宰を、司書は抱え込んだ。すり、と猫のように太宰の頭にすり寄る。

きっとこの人は不幸になる。

司書は思った。思っても口には出さなかった。手に入らないと思っていた人が、自分のところまで堕ちてきた。今手の中にある。

「好きです、せんせい…」
「ん、おお…」

太宰はなんだか良く分からないままに絆されることにした。彼は好意に貪欲なのだ。司書の憂いは分からない。それっでも好いてくれるのならば、それで良いと思った。
ほかほかと暖かい司書の腕の中で、そっと目を閉じた。
司書は傷つかない。罵倒されても、身体のどこかが痛むわけでも涙が出るわけでもない。苛つくこともない。ああそうかと思うのだ。ただそれだけだ。それでも悲しい顔をしているよりは、人の笑顔の方が好きだった。だから他人に興味がないわけではない。それでも他人の感情に同情はできない。
司書は心のなかで言い訳をした。最初から言っている。自分は良い人ではないのだと。ずっと言っている。

優しく甘やかすだけでは足りない。どろどろに甘やかして、一人では立てないくらいに心を壊したい。心の硬いところを削いで剥いで柔らかい所を剥き出しにして。すがりついてくるまでは遠く突き放したい。ボロボロになって誰も見向きをしなくなった彼を、抱き上げて抱き締めて、うんと甘やかすのだ。きっとそれは太宰を壊す。それでも手放してやるほど、やはり良い人ではないのだ。

「先生好きです」

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