「知ってるかい?」
煙管をくわえて、これまで一言も発さなかったリクオが、唐突に呟いた。傍に控えていた黒羽丸はピクリと反応した。だが何も言わずに、じっとリクオの独り言を受け止めていた。
「最近ピンクの頭した男が…
」
天使に恋をしたんです
「へぇ、そんなことが…」
毛倡妓が酒を持って現れた。感嘆の声を上げながらも、彼女はゆったりとした所作でリクオに徳利を渡した。
「ああ、ずっとこう言って歩いているらしい。『黒い羽の天使を知りませんか?』」
「まぁ、それはロマンチックですね〜」
毛倡妓は、「首無もそれくらいのことを言ってくれても良いのに」と愚痴を零す。リクオは笑みを深くして、「惚気かい?」とあっけらかんと聞いて見せた。毛倡妓は「まさか」と答えたが、満更でもないらしかった。
「さっきの話だが、俺はこれが三羽烏じゃないかと思ってんだ、なぁ黒羽丸」
「………さぁ、分かりかねます。ささ美でしょうか…」
黒羽丸は普段どおりの抑揚の無い声で答えたが、一瞬の間があったことをリクオは見逃さなかった。
「その割には、動揺して見えるぜ?」
リクオは人の悪い笑みを見せた。
「……そんなことは…」
「へぇ、そうかい」
明らかに狼狽した黒羽丸に、珍しいこともあるものだと、リクオは面白がった。それを酒の肴に、リクオは酒を呷った。
「これは独り言だが……」
"浮世絵町、繁華街を抜けたところにある大きな日本建築の屋敷に住んでるらしい"
彼は散り行く桜を眺めてそう言った。
黒羽丸はじっとリクオの言葉を聞きながら、どうにかしなければと静かにそう心に決めていた。
「あの男、…馬鹿か…天使、だと?」
リクオが去った後、黒羽丸は呟いた。心当たりがあった。
「はぁ……」
普通の女なら天使と形容されたなら喜んだだろうが、黒羽丸は普通の人間でも、ましてや女でもなかった。げんなりとした顔をして、パトロールのため、夜の空に飛び立った。
あの男と出会ったのは、こんな満月の日だった、と黒羽丸はまん丸の月をぼんやりと眺めた。
あれから一月、
「はぁ…」
***
そう、一ヶ月前のことだ。
「はぁ…はぁ…!……たす…助けて!」
か細い声に導かれて、黒羽丸は現場に向かう。
黒い闇に足を取られたピンク色の髪をした男が、助けを求めて手を伸ばしていた。襲っている妖怪はそう名の知れた者ではないが見覚えがあった。戦闘力など無いに等しいのも分かっている。しかし一応は気を引き締めて、地上に降り立った。
「ひっ…その羽織は…」
リクオよりは年上だが、成熟しきっていない男を闇から引きずり出す。黒羽丸は妖怪をぐっと睨み付けた。
とどめとばかりに錫杖を鳴らすと、妖怪は血相を変えて逃げて行った。
「……てん、し?」
黒羽丸の顔を見て、幼さの残る顔をした青年ははっきりとそう言った。黒羽丸が唖然としていると、腕の中の男の体が重くなった。
「おい…、大丈夫か!?」
ぐったりと力を無くした体を揺さぶり、黒羽丸は声を上げた。だが、すぐに規則正しい息遣いが聞こえ、ほっと胸を撫で下ろした。
人の近づいてくる気配がしたので、黒羽丸は近くのベンチに男を寝かせ、その場を去った。
「…人は脆いものなのだな…」
ポツリと呟いた言葉は誰にも聞こえることなく、闇に溶けた。
***
ピンクの髪の色なんて滅多にいるものではない。妖怪だって、そんな髪の者は珍しい。遠野妖怪のなかには居たような気もするが……
とそこまで考えて、黒羽丸は思考を止めた。
「っ…」
黒羽丸は目の前の建物に、息を呑んだ。無意識とは怖い。
"浮世絵町、繁華街を抜けたところにある大きな日本建築の屋敷に住んでるらしい"
「俺は…馬鹿か………」
「あ、天使…!」
「っ……!」
声に反応して後ろを振り返ると、吐息がかかるほど近くに、その男はいた。
「近い!」
手にもった錫杖を思わず振り回してしまった。
「わっ…!」
「あ…」
あまり強く振り回したわけではなかったので、それほど強い衝撃ではなかった。だが、黒羽丸は人に危害を加えてしまったことに唇を噛んだ。
「すまない…」
「ん?良いって。別にそんなに痛くなかったし」
「でも…」
男は人懐っこい笑みを見せた。昼間のリクオが見せるような無邪気なものだ。
「じゃあ、教えて、名前」
申し訳ないとは感じたが、交換条件を出されるようなことでもない。黒羽丸は些かむっとした。図々しい男だ。
「私のか…?」
「うん」
男が冗談を言っているようには見えない。名を告げて気が済むのならと、黒羽丸は口を開いた。
「黒羽丸…」
「クロウマル?どんな字?」
「黒い、羽、……丸は図形の丸…」
「へぇ…俺は、」
「よろしくな」とという男ははにかんだ。その笑顔に黒羽丸は気圧された。なぜ妖怪とは全く縁の無さそうな人間と自己紹介などしているのだ、黒羽丸は自問自答する。
「私は…見て分かるように人ではない。だから、もう忘れろ」
「なんで?おれ、黒羽丸さんのこと、」
ずいと、は黒羽丸に迫った。黒羽丸はじり、と後ろに後退る。
「好、きなんだ…」
「は……」
予想外の展開に、黒羽丸の口から吐息が零れた。
「だから、だから会いたい、こんなに近くに居るのに、…」
黒羽丸の喉がこくりと鳴る。真剣な目に呑まれる。
「…触れ、てもいい?」
「っ…」
すっと伸びる手には、抗えない何かがあった。黒羽丸が息を呑むと、手がぴくりと止まった。覗うようには黒羽丸の目を見つめた。視線がかち合う。熱い視線に、黒羽丸はごくりと唾を飲み込んだ。
止まっていた手が再び黒羽丸に迫る。指先が一瞬頬に触れた。壊れ物を扱うようにその手は頬を撫でた。その瞬間、黒羽丸の体は熱が溢れ、汗が噴出す。顔に似合わぬごつごつした手がすり、と愛しそうに動く。
その手が下へと降りる。黒羽丸はそれを目で追う。黒羽丸の手に指先が触れた。
「黒羽丸さん、」
黒羽丸は、はっとした。
「駄目…俺、調子乗っちゃうんだけど…」
は、真っ赤な顔を片手で隠し、俯いた。
「…っ…!」
黒羽丸はの体を壊さないように気をつけながら、体を押しやった。
「あの、」
「私はもう行く。お前はもうこんな時間に出歩くな、俺を探すな、絶対に会わない、もう絶対…お前みたいな人間は…知らなくても、いい世界だ」
はっきりと区切り区切り言った。
「え、あの、えっと、黒羽丸さ…」
捲くし立てるようにそう言い残し、黒羽丸は真っ暗な闇に紛れた。
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