それなら私も共犯だ 3
風呂場に向かうを見送り、森山は目を開いた。そして再び目を閉じた。
「………俺は、先生が好きだ、……」
ぽつりと呟いた。は耳が良い。だが普段は普通の人間と同じだけの聴力にしているのだと、の父「ジン」が言っていたのを、森山は聞いていた。
は人のフリをして生きている、モノ。森山は自分はおかしいのだと認識していた。は死なない、老いない。普段はそんなこと全く意識しない。しかしふと異常だと感じる。
同じ人にときめき続けられるのは三年、信憑性の確かでない情報はどこかインターネットで見た情報だ。森山は自分の恋心が三年で色褪せることを望んでいた。理性的には。
だが、本能が己の奥深いところで、を思い続けていたいとも思っていた。いや、の全てを得たいと、そんなことを考えるときがある。浅ましく愚直な想いだ。自分が死ねば、は他の世界へ行き、他の者を好きになる。ならば、せめてこの世界では自分だけを、がむしゃらに求めて欲しいと。
「………さん、以外を好きなら、……こんなこと、考えなくて済んだのに…」
森山は溜息を吐いた。彼がこんなにも悩むのは、昨日の出来事があってからである。
「森山くん、私ね、森山くんのこと、好きになっちゃったみたいで…」
頬を染めて懸命に想いを告げてきた女生徒を、森山は随分と前から知っていた。森山の知っている、正しくは「森山さん」の記憶の中よりもかなり幼いが、確かに前世で彼が愛した女だった。第一印象から感じの良い人で、それはお付き合いをして結婚してからも変わらなかった。やはりそれは今生でも変わらず。ともすれば好きになってしまいそうな、心持ちである。
頭がきりりと痛んだ。普段は思い出そうとしなければ表に出てこないような記憶が次々と呼び起こされた。
紹介だった。大学の三つ上の先輩で、森山からも2学年上。「森山さんと同じ高校だったらしいよ?知ってました?こんな偶然ってあるんですねぇ」などと言っていたのを思い出した。
「………す、みません…俺……」
「………そうですか…こちらこそすみません。」
少女、刈谷綾音は寂しそうに、しかし笑顔を作ってそう言った。愛していた女性がそんな顔をするのを黙って見ているだけしかできないことに愕然とした。を愛さなければ、彼女にそんな顔をさせなくて済んだかもしれない、そんなありもしない「もしも」を考えてしまった。これは裏切りだろうかと、森山は自嘲した。
無性にに会いたくなった。会えば自分の気持ちを再認識できる。そう思って、疲れた体に鞭打っての家を訪れた。そしてを見て、森山は思ったのだ。
ああ、逃げられない
と。
森山は目を開いた。どうしたって、森山はを見捨てられなかった。どこか人と距離を置いている男を放ってはおけない、そう思っていたのが、いつしか離したくないに変わったのを森山は知っていた。
「あ、シャンプー切れてたんだった…」
**
「はぁー…」
は女性の姿に戻った。戻ると言っても元々性別の区別はないので、感覚的な話である。風呂というのは、人にとって素の姿に戻る行為だと言える。普段は服を着て生活している者が、裸になり、生まれたままの姿になる。その点で三大欲に次いで野生的な営みとも言える。
そんなことを深く考えているわけではないが、は風呂に入るときには女になる。いくら男の姿をして男として振舞っていても、本質が女性であるという認識は抜けない。
何百何千と生きてきた年月よりも、人でいた遥かに短い年月の方がにとって重要な意味合いを持つ。がという人格を形成したのは、やはり人だったときなのだ。だからは女だ。どれほど彼女が男ぶっても。
だがやはり男でもあった。森山にとってはまごうことなく男だった。
「あ、シャンプー…」
髪を洗おうと手を伸ばすが、目当てのものは無かった。
そのときだ、風呂のドアが無遠慮に開いた。
「あ、」
と声をあげたのはだ。森山は一息置いてから、まるでサスペンスドラマのヒロインのような悲鳴をあげた。森山はびたんとドアを閉め、その場に座り込んだ。無理もない。おっさんがいると思って開けた扉の奥には、成熟した女がいたのだから。
はすぐに男の姿に戻り、がらりと風呂のドアを開けた。森山は詰め替え用のシャンプーを握りしめ、座り込んで小さくなっていた。
「ごめん、男の体洗うの、なんか変な感じだから、風呂は女に…一緒に入る?」
は意地悪で言ったのではない。ここまで来たのなら入ったらどうか、程度の気持ちだった。しかし森山は、
「は、入らない…」
茹で蛸のような顔で、森山は俯いた。かすれた声が、か細く加護心をくすぐる。はぽすぽすと頭を撫でた。
「……君、確か子供いたよね…?」
「前世は前世であって俺じゃないし…」
「由孝くん、体洗ってよ。私女だったから、どうもセオリーが分からんのよね」
にっこりと笑うと、森山は小さな声で「いいよ」と言った。熟した林檎のような顔で、森山は俯いた。
**
「あー、人に背中洗ってもらうとか初めてかも…」
は間延びした声を出した。素っ裸で二人、風呂の中。森山はまだ15歳の少年で、がっしりとした筋肉は付いていない。しかし適度に造られた体はしなやかで瑞々しい。
「前は洗ってくれないの?」
と冗談混じりに言うと、森山は顔を赤らめた。
「ん?」
催促するように甘く問いかけると、おずおずと手が伸ばされる。その様が余りにも必死なので、は思わず吹き出した。「せ、せんせぇ」森山はを咎めた。ぎろりと睨む。そんな仕草でも、頬を染めた状態では寧ろ可虐心を擽られる。
「ごめんごめん。あんまりにも必死だから…つい」
苦笑混じりに言うと、唇を尖らせた。
「そんなん言ってると、俺を他のやつに盗られちゃうぞ」
はきょとんとした。森山の言葉に反応した感情は、諦めだった。彼の言葉に怒りも驚きも無かった。そういうこともあるのだろうと思った。
「可愛い子に告白でもされた?」
「……まぁ、」
森山は言葉を濁した。がどう思ったか検討がつかない。全くの無表情。怒るでも悲しむでも、ましてや嫉妬をしているわけでもない。森山は急激に不安になった。目の前の背中に飛び付いた。
「森山君…?」
梅雨明け、真夏というほどでもないが、浴室はむっとした空気が立ち込めていた。合わさった肌の間からつ、と汗が流れた。
「由孝くん……?」
「……綾音だった…」
「え、」
一瞬のうちに色々な思いがの脳裏によぎった。
「綾音に、告白されたんだよ」
咎めるように森山は語気を強めた。ははっとした。だが、すぐに様々な感情を抑え込み、
「そう…」
とだけ答えた。
「先生は、さんは……俺なんか、どうでも良いんじゃないかって、」
違うと口を開こうとしたとき、森山の方が先に言葉を発した。
「分かってる」
森山は慌てて言葉を重ねた。大事にされている自覚はある。適当な付き合いをする人でないことも分かっていて、つい口を突いて出た。
「さんが、俺のこと大切に思ってるってこと、ちゃんと分かってる。でも、俺は…」
「私は臆病なの」
は森山の言葉を遮った。
「私は、絶対に君を裏切らない。心変わりをするようなプログラムにはなってないからね…でもね、君には色んな選択肢があるでしょ」
太ももに置いた手が震えた。その震えを隠すように、は手をぎゅっと握りしめた。
「私はね、泣いて喚いてすがり付いて、君を束縛なんてしたくない…そうする自分になりたくない…ずっと、ずっとそうやって聞き分けの良い′人間′をしてきた」
良い子であろうとした。嫌われたくないから。人類全てに愛されるわけではない。そのことを理解して、だから傍若無人な自分を演じることもした。しかし心の奥底では、やはり誰からも好かれていたいと思ったのだ。
「今さら、変わることが、怖い…」
ぽつりと零れた声は、自身を狼狽させた。それほどに弱々しく情けない声だった。きゅっと唇を引き結んだ。はっと息を吐き、はもう一度口を開いた。その間、森山は一言も言葉を発さなかった。じっと聞いていた。心音の聞こえない背に耳をつけて、ただの木偶の世迷言に耳を傾け続けた。
「変わることで、……そうすることで、私が私でなくなるんじゃないかって…だって、私はどこにも属してない。すぐにでも、この世界から消えられる。私が、私であることは、私が私だってことでしか、示せない」
は成長しない。その代わりに変化する。悪人が聖者に、聖者が悪人に、一瞬で変化する。変わったことさえも気付かぬ内に。自分が自分でなくなることが、にとっては、溜まらなく恐いことだった。
森山は手に持つスポンジを握りしめた。普段は尊大で飄々としているの背が、今は頼りなく見えた。いや、はいつだって弱かった。「森山さん」と呼ばれていたときから。
「じゃあ、俺が、お願いしたら、先生は、俺のためにその願いを叶えてくれるの?『聞き分けよく』、…」
森山は縋るような声を出した。顔は嘲笑で歪んでいたが、には見えない。そのことに森山はほっとした。森山は、垣間見えるの弱さに惹かれたと言っても良い。
今はその弱さに付け込んでいる。
「…狡い言い方だって、分かってる……俺が、いつでも何の気兼ねもなく、あんたの側を離れられるようにしてくれてるって…それが、…俺を誰よりも、その…」
森山は言葉に詰まった。自分を「愛している」と思ってくれていることを自分の口で宣言するのが恥ずかしかった。
「…大切だって、思ってくれてるからなんだって、それが不安なのは、俺のわがままだってことも…」
愛しているが故には突き放す。それが分かっていながら、森山はに自分を離さないという意思表示を強いている。優しさを踏みにじる行為だ。頭では理解していても、感情で納得できない。森山はの背に顔をぎゅっと押し付けた。少しでも離れたくないから、そして少しでもその温もりを感じていたいからだ。たとえそれがまやかしの体温だとしても。
「証がほしい。俺が、絶対に心変わりしないって確証はない…でも、ただ、……目に見える、ものが欲しい…それで、……!」
感極まって喉がひきつった。それで納得できるかは森山自身にも分からない。何を貰っても不安は消えないのだという確証すら持てるくらいだ。だが、それでも縋るしかなかった。
「そっか…」
は俯いた。森山は我が儘を言う質ではない。冗談で言いはしても、寧ろ実際にそれを叶えられると、どうしたら良いのか分からなくなるくらいだ。だからは森山のこの小さな願いを愛しいと思った。感情を剥き出しにして、自分を求めている。は今ここで確かに生きている、それが実感できた。余所者ではない。この世界でたった一人だとしても、は求められている。その事実だけで良かった。は覚悟を決めた。真っ直ぐに、どことも知れぬ場所を見据えた。
「分かった」
「先生?」
「何回目だろ…前もこんなやり取りした気がする」
「さんが意気地無しだから」
「は、はっきり言うなぁ…傷つくわぁ」
「んー…だって、俺先生に突き放される度に傷付いてんもん」
「す、すみません…」
がっくりと項垂れた。反論の余地がない。
「いや、ほんと由孝くんのことは大切なんだよ?でも、なんか本当に私で良いのかな、とか、あー…不安になるというか…」
森山の体がの背から離れた。離れた熱の理由が分からず、は不安になった。ぐるぐると訳を考えていると、頭が優しく撫でられた。
「また、なんかぐるぐる考えてるだろ」
急激に苦しいやら嬉しいやらの感情が沸き上がる。きゅうぅ、と胸の奥に込み上げる。
「よ、由孝くぅんん!」
振り向き様に森山に抱きついた。溜め息を吐いて、森山の頭を撫で続けた。
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