ざー、とシャワーが森山の体を濡らしていく。暑い湯を頭から被りながら、じっと考えた。湯が森山のからだを伝い、そして排水溝に流れていく。
森山は高校に入り、夢で見たことが前世の記憶だと理解する前、笠松や小堀と向き合うのが怖かった。夢の中とあまりにも変わらない姿だったからだ。果たして己は、森山由孝という男は、どういった存在なのか。存在が酷く不確かだった。
シャワーから出て、森山は小窓から聞こえる雨音に耳を傾けた。体をバスタオルで拭き、小さなタオルを頭から被りって洗面所と廊下を隔てる暖簾をくぐった。
相変わらず梅雨が続いていた。梅雨明けは来週あたりだと天気予報士は言う。だが、梅雨前線が別れを惜しむように大雨の日が続いていた。本当にもうすぐ梅雨は明けるのか。
ひたりひたりとフローリングを素足で歩く。足裏に張り付く感覚がほんの少し不快だったが、森山は靴下を履く気になれなかった。
ぽつぽつと髪から雫が落ちる。それを気にすることもなく除湿器のスイッチが入った部屋に入ると、少し肌寒かった。その部屋でがソファに座り、アイスを食べながら雑誌を見ていた。あーんと大きな口を開けて、ぱくりと食べた。
「ねぇ、」
「ん?」
ぽつりと呟かれた声を、は拾った。
「先生はさ、……森山さんと会わなくても俺のこと好きになったかな」
「さぁ、森山さんに会わなかった私は私じゃないから、私には分からないなぁ……」
は雑誌から目をそらさずに言った。食べ終わったのか、アイスは机に置かれた。
「まぁ、そうなんだけど…」
はあれ以来吹っ切れてしまったのか、「森山さん」と森山の問題に触れることはなかった。だが、森山はほどこの問題を消化し切れていなかった。時折自分が誰なのか分からず、地に足が着かない感覚に襲われていた。
「俺、夢の中で森山さんに会ったんだ」
「会った?」
は森山の言葉に、顔を上げた。森山はこくりと頷いた。は眉を顰めた。そして、ぱたりと雑誌を閉じてしまった。
「そう。…明確に君と彼の間に隔たりはないはずなんだけど…」
「隔たり?」
森山はてこてことに近づき、すとんとの足下に座った。森山がを見上げると、こくりと頷いた。
「つまり、君は彼であり、彼は、君とは切っても切れない存在と言うことだ」
森山はの言葉を聞いていたが、正直理解できなかった。言葉として理解できても、実感として納得できなかった。しかしは言葉を続ける。
「人を構成するものは何だろう、その人をその人たらしめるものは、何だろう」
森山は沈黙した。それは哲学者が何百年も何千年も前から悩み抜いてきた議題ではないか。森山は考えることを放棄した。その沈黙をがどう思ったのか森山は分からない。だが、はさらに話を続けた。
「それを『記憶』という人がいる。記憶が、その人をその人たらしめている…じゃあ、記憶を失った者は、変わらずその人だろうか」
「そ、うなんじゃない?」
森山はやっとのことでそう答えた。
「それも一つの答えだよね。でも…、じゃあ姿が変わってしまったら?」
「それは…」
口ごもった森山の頬をそっと撫でると、森山はの熱に縋った。答えを出せないことにが呆れてしまったのではないかと、森山はの目を不安げに見つめた。その目を真っ直ぐに見返し、は微笑んだ。
「自分は、記憶がない。だから、自分が誰なのか分からない。それでも、周りの人が、自分は自分なのだと教えてくれる。でもさ…姿も変わるわ記憶もない。その人はその人で居られるかな…」
森山はぞっとした。記憶がなくなってしまえば、恐れることもないのだろうが、自分が自分でなくなるということが溜まらなく怖く感じ、森山はぶるりと体を震わせた。
は濡れたままの森山の髪を、肩に掛けられていたタオルで優しく撫でた。水分がタオルに吸収されていく。
「由孝君は、カフカの『変身』という話を知っている?」
「いや…」
「朝起きたら巨大な虫に変わっていたらしい」
森山は眉を顰めた。その表情に、はくすりと笑った。
「大きな毒虫だ。彼の姿は劇的に変わってしまった。彼が彼だと、そう分かるのは、彼が彼として生きてきた記憶があったからだ。ただそれだけのために、彼は彼だった。まぁ、この話はそういう類の話ではないんだけど…というか、本当に彼が最後まで彼だったのか、私は疑問に思ったけど…」
意味深に言葉を濁し、は微笑んだ。
「話が逸れてしまったかな…単に、そういう話を考える人がいるもんだから、姿が全く変わってしまったら、どうなるのかと思って…」
そう言っては俯いた。タオルから手を離し、少しぼさついた髪を撫でつけた。
「そう、君の魂、とでもいうものは、確かに彼と同一のものなんだろうね。それを記憶として有している君と、森山さんを大きく隔てる何か、明確に分離して存在するかどうか、という話だと、断言が出来ない。君は彼だ。そして同時に君は君なのだけれど」
森山はを見上げるのに疲れて、の膝にこてんと額を付けた。森山は、瞳を閉じて、の言葉を頭の中で反復した。
「記憶がその人を表すものだとして、君は前世の記憶があるのだから、君は森山さんと同一の者、だということになる」
「そ、れは分かった。でも、…なのに俺が俺であるのはなんで?」
森山はかすかに顔を上げ、の腹の辺りをぼんやりと見た。
「それは君が…いや、」
それは、かつてと友人関係だった森山が死に、生まれ変わったのが目の前にいる森山由孝だからだ。しかし、は声に出してそう言うことができなかった。
「そうだな…君は彼だ、彼である部分が存在するが、彼と違う部分が存在する。それだけのために、君は君だ」
「うーん……こんがらがってきた」
再び森山はの膝に額を当て、項垂れた。
「たとえば、……んー…アメショとペルシア猫との間の猫は何猫?」
「え…と、雑種?」
顔を上げて首を傾げつつ、森山は答えた。は頷いた。森山はその反応に微笑んだ。だが、すぐにから視線を逸らした。答えを当てられて喜ぶなど、子供のすることだと恥ずかしくなったのだ。
「そう、両方の血が入ってる。アメショでもあり、ペルシャでもある。でも、どちらでもない、新たな名を付ける必要がある。アメショでない部分があると言うだけで、ペルシャでない部分があるというだけで、それは全くの別物になる」
そっと森山の髪を撫でながら、は言葉を発していく。決して良い声というわけではないが、の声は穏やかで、優しい色を持っていた。その音に耳を傾けながら、森山はほっと息をついた。
「顔も、声も一緒、でも、君と彼は違うよ。一つでも違うなら、それは全くの別物だ。名を付けなければならない程には、別物だ。だから、君は君だ」
「なんか、納得できない…」
「えー…」
は参ったな、と頭を掻いた。そして意を決したような真剣な表情になった。
「大輝くんは、もう私のこと見ても話しかけてくれないよ…」
「………それは…」
ぽつりとの呟いた言葉に寂寞が含まれていることに気付き、森山は目を伏せた。
「もう、彼は、私の好きな青峰くんじゃない。同時に、私の友人だった森山さんは、もういない。死んだんだよ。そして、君に会った。君だけを、今は愛してる」
「っ…」
髪を梳き、はぽつりぽつりと、しかしはっきりと言い切った。森山は息を詰めた。死ねないと言うことは、そういうことだ。今までふわりふわりと理解していたという存在を、今はっきりと実感した。
「あの人は、…死んだんだ」
は繰り返した。森山はやるせなくなって、の膝に縋り付いた。
「…由孝くん、どうしたの?」
「ごめん」
「ん?」
ぽつりと呟いた言葉に、は疑問符を浮かべた。
「ごめん…」
「良いよ、人はいつか死ぬんだから…」
の優しい声に、森山は感情を抑えられなかった。目からは止めどなく涙がこぼれた。のズボンが森山の落とした涙で濡れる。
「違、う…あんたを、置いっ……ていく…自分が、……許せ…な…」
嗚咽で、最後の方は聞き取れなかった。は森山の体に覆い被さった。背中に腕を回し、濡れた髪に顔を埋めた。
「由孝くん、」
「っ…なに……」
涙声には胸が痛くなった。無いはずの心臓がどくりどくりと大きく波打った気がした。
「私は、人のように成長しない。私たちは成長するのではなく、生まれ変わる。全く別の者になってしまうことも在るらしい」
森山はの膝に顔を埋めたまま、その声を聞いていた。
「私は、きっと別の世界に行くときに生まれ変わる。変わってしまってる……」
は一息置いた。そして、すぅと息を吸い(吸ったかのような動作で)再び語り始めた。
「驚くほど、呆気なく、その世界で人を愛せる。人の一生分一緒にいた人を、忘れることはなくとも、普通は引きずるはずなのに、私は、……何の躊躇いもなく、また違う人に愛の言葉を囁ける」
にっこりと笑った顔は、どこか自嘲的だった。
「君のことも、きっと…」
思い出にしてしまうよ
その言葉は紡げなかった。森山が、勢いよくの体に突進した。の膝にまたがり、震える両の手で森山はの口を塞いだ。
「言うな、言わないで、それでもいい、それでもいいけど、でも、言うなよ…」
ぱたぱたと、の顔に涙が降ってくる。その一粒がの目に落ち、まるで泣いているかのように頬をその涙が伝った。
森山はの口を手で塞いだまま、縋るようにの首筋に顔を埋めた。
は、そっと森山の手に触れた。びくりと、森山の体が跳ねた。息苦しくはない。は、呼吸をしていない。心臓も動いていない。ただ呼吸をしているように、鼓動を刻んでいるように見せかけることはできた。それでもは森山の前では、見せかけることはしなかった。
「せん、せぇ…」
いつかは森山を思い出にして、新たな恋人を作る。それは、が永い永い時を生きるために必要なことだった。森山にはそれが分かった。分かっていながら、それでもが想うのがずっと自分だったなら、と思うのだ。それと同時に、己が居なくなった後に、が自分を思い続け苦悩する様など想像もしたくもなかった。
「せんせ…好き、好き、」
「うん…」
森山はぎゅっとにしがみついた。
(ああ、…この人には…)
打ち消すように森山は目を閉じた。思考を止めた。考えれば考えるほど、自分が分からなくなった。
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