部屋に戻ると、まだシュヴァーンは寝ていた。訓練までには時間がある。昼食を食べるだけの時間の余裕をもって起こしてやろう。
据え膳、という言葉が脳裏に浮かんだが、恋愛事にかまけている場合でもない。
先程アレクセイに言っていた資料を完成させてしまおう。
カリカリと部屋にペンの音。
何度かの徹夜の末できたものだ。端的に馬鹿でも分かるようにはしてあるが、読まれなければ意味は無い。
背もたれに身を預け、虚しさをやり過ごす。
そろそろ起こしてやるか。
彼の顔を見たら少しはマシになるかもしれない。
ベッドに近付くと、すやすやと寝息が聞こえる。無防備だ。私に性欲は無いので、本来睡眠欲も食欲もないのだが、こうも気を許されると、ちょっかいをかけたくなる。
いや、これから訓練だ。そっと起こそう。
「シュヴァーン、起きろよー」
ぽそぽそと小さな声。これでも意識が浮上すれば聞こえるのだ。何度も呼び掛けをしているうち、ゆっくりと目が開いていく。
「んぁ、」
「昼食いっぱぐれるよ」
「はっ、」
シュヴァーンは目を見開いた。
「……おはようございます?」
「おはよう、って時間でもないけどね訓練まであと二時間、ってとこ」
「あ、ああ、有難うございます…」
歯切れが悪い。
「すみません、…ベッドの誘惑に勝てませんで…」
「好きなときに来て好きなときに出ていってくれれば良い、って言ったと思うけど。鍵は渡したでしょ?」
「それは、…そうですけど…」
「盗られて困るものは無いから。それより早く動きなさい。遅れたら、怒るからね」
シュヴァーンはピシッと背筋を伸ばした。そして行動を開始する。
「あ、服…」
「ちょっと待ってて。執務室に予備があったから」
「すみません、」
「君がそんないかにも寝間着です、って格好でここを出られて困るのは、私も同じだから」
「…すみません」
「まぁ、私の噂は絶えないから、一人くらい情人が増えても良いけどねぇ」
と言うと、流石に嫌な顔をした。
冗談だ。流石の私でも部下、それも下っ端に手を出したとなると、体裁が悪い。アレクセイは部下と言っても、対等な関係であると皆知っているし、令嬢に手を出すのは、貴族としてはそれ程問題ではない。私に抱かれたというのはある種のステータスらしいし。夫人に手を出したところで咎められるのは専ら女性の方だ。彼女たちには悪いが。
「あんたって、良い奴なのか悪い奴なのか分からない」
「良くはないけど悪くもないんじゃない?悪い大人ではあるかもね。こんな若い子に年甲斐もなく手を出すんだから」
「……手は出されてないですけど…あて」
デコピンをしてやった。
「遠征終わったら覚えとけよ」
「善処します」
なんだ善処って
***
シュヴァーンの準備を待っていたらご飯を食いっぱぐれるので、先に食堂に向かう。今日は何を食べようかと、思案していた時、
「また寂しくなっちゃいますね」
「おおぅ」
至近距離で声。驚いて声が出た。
「イ、イエガー…」
最近私の扱いが雑になってきたな。いや、上手くなったのか。
「これからイエガーも昼ご飯?」
「ええ、軽食を」
「また吐かないでね」
「頑張ります…」
イエガーは顔色を悪くした。
「…御一緒しても?」
何か大事な話だろうか。断る理由もない。
「どうぞ。先行ってるよ」
「はい」
今日は日替わり定食だ。どっしりとサラダ、ふんわりとしたパンにステーキ、そしてスープに、デザートのフルーツ。この為に生きていると言っても過言ではない。睡眠はとれないし、時間がないので本も読めない。娯楽が少ないこの世界で、それでも恋愛小説の一つでも読めれば万々歳なのだが。
で、結局これが楽しみになる。
イエガーは本当に軽食だ。じっと見ていたのが悪かった。憮然とした表情をした。
「入れると、気持ち悪いんですよ」
「まぁ、野菜、主食の炭水化物、そしてたんぱく質、割と良いんじゃない?」
ふぅむ、とイエガーは唸った。
「で、なんだっただろう」
「…まぁ、最近私の方が先に自室にいることの方が多いですから、寂しい部屋に帰るのは変わりないんですけどね」
シュヴァーンのことか。
「…人の気配に敏感みたいね」
イエガーは私たちの関係を気にしているらしいが、特に進展という進展はない。憎まれ口を言い合うのはこれまでと変わらないのだし。同衾、とも言えないだろう。本当に寝ただけだ。というか、そこまでの展開を彼が知りたいというでもない。多分。いや絶対に無い。
同僚と上司のきゃっきゃうふふを聞きたいのか?それとももっと肉欲的な?この男にそんな下世話な趣味があるとは思えない。
「…そうみたいですね」
口を割らないのが分かったのか、イエガーは頷いただけ。
「手負いの獣だってあんなに警戒しませんよ」
そうなる理由に、私は心当たりがある。しかしそれは私の口から言ってはいけないのだろう。寧ろ私がこの世界から出ることによって全く消え去ってしまっても良い案件なのだ。
「……下町とは、それほど過酷な場所なんでしょうか…」
こちらが本題だったか。
「まぁ、あれは特別そういう感じなんじゃない?私の知り合いはもう少しおっとりしてるよ…」
マリアはおっとりし過ぎている気もするが。逆にジリなんかは百獣の王のようなどっしり感。全く性格は違うが、双方怯えて暮らしている様子はない。
もっと厳しい貧民街になると分からないが。稼ぐ場所があるので、それなりに回っていると言える。遊ばせておく労働力など無いのだ。
奴隷が虐げられるというのも潤っているから出来ることで、貴重な資産を自ら壊すことはすまい。
そして薬物の流通がないのも治安がそこまで悪くならない理由の一つだ。この辺りでそういう物になりそうな植物はない。つまりはこれのおかげ。私は上を見上げた。天井の上、さらに屋根を突き抜けて上空を覆うあれ。
「様は下町に知り合いが居られるのですか?」
「まぁ、」
「…そうですか」
何か言いたそうだ。
「どうしたの」
「いえ、キャナリが、下町の人に何かできたらと、勿論私もそう思います」
平民とも分け隔てなく接する彼女だ。話をしているうちに色々と思うところがあったのだろう。
「今は、…その時ではない」
「それは…」
「今は生き残ることを考えなさい。二兎を追う者は一兎も得ず」
「はい…」
「そういうのを考えるのは私の仕事」
ショボくれていたのが嘘みたいに、顔を明るくさせた。
「君の意見は、私が生かそう」
「…はい!」
また仕事が増えた。演習遠征が終われば一段落と思っていたが。
致し方ない。前に進もうとする若者の足を止めることは、してはならないのだ。それは老害というものだろう。
それに、ジリとも約束したし。
「イエガー、」
「はい?」
「…君の手で、下町を変えられると、思わない方が良い…」
「え、と、はい。承知しています…」
何か誤解されているような気がする。
「ああ、別に…」
弁明しようと口を開くが、遮られた。
「様」
「はいはい、」
アレクセイだ。声が固い。
「…ゆっくりするということが出来ないのですか」
「優雅に昼食をとっているつもりだったんだけど」
「…すみません、私が…」
可哀想に、イエガーが冷や汗をかきながら立ち上がろうとする。それをアレクセイは手で制した。
「仕事熱心なのは良いことです」
「そうだね…ああ、あとで執務室に来てね。さっき言ってた資料…」
「資料が完成したんですか」
「すみませんさせました…」
シュヴァーンが余計なことを言うから!
「分かりました。私も昼食を摂ってから伺います」
「はい…」
そりゃ私のことを思って言ってくれたのだとは思うが。
思うけれども!
「あの…すみませんでした」
「君に謝られると困るんだけど…」
イエガーは肩を落とした。
「アレクセイくんは過保護だから」
「でも、隊長よく倒れるって…」
「まぁ、……」
寝不足が原因でないことは、何となく感じている。上空のあれだ。星喰み。間違いなく。そうでなければ流石に頻繁に起こりすぎだ。いくら私といえども、ここまで人らしく疲れたし倒れます、なんてことはない。
「帝都の空気は、少し私には合わないようなんだ」
「え、」
にっこりと笑って見せた。詮索は無しだ。
「まぁ、心配には及ばんよ…死にゃせん」
「…分かりました」
「…ああ、そうだ…頼まれ事を聞いてくれるかな」
「はい?」
「大したことではないよ。ただ、仕事は振っていかないと、またアレクセイにお小言を貰う」
「はい!何なりと!」
元気だ。若いって凄い。いや、私が彼と同じくらいの歳の時は、もう少し草臥れていたような気がする。
「下町、いや、まぁ平民か、皆で話し合いをしていたりするだろう?それを纏めて議事録みたいなものを作って欲しいんだ。それをこっちに上げてくれると助かるよ」
考え込むような仕草。嫌なわけではないだろうから、どうしようかと考えているのだろう。
「あまり過激なことは書いてくれるなよ。見られでもしたら困るからな」
「勿論です」
「つまらないと思うようなことでも構わないし、すべて記録する必要はない。世間話を延々と書かれても困るしね。要は、今回のことのように、君たちの意見が知りたいんだ」
「分かりました!」
彼も誰かの為になることをしたいと思って騎士になったのだろうか。未来への期待でいっぱい、といった顔だ。
それも全て遠征で生き残れればの話だが。
「それと、遠征が終われば新しく、しようと思っていることがあってね、」
「何でしょう」
本当に熱心な子だ。
イエガーは熱心に私の話を聞いた。
成程と相槌を打ち、そして意見を述べる。結局仕事になってしまった。
「未来に期待を寄せるのは結構だけど、生きて帰って来られればの話だよ。決して無理をしないようにね。今回遠征の後の話をしたのは、君がその為に意地でも帰ってこようと思えるようにだ」
「はい…!」
「ああ、それと、」
***
端話
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