次の日、森山はの家から学校に向かった。寝覚めが悪く、一日体がだるかった。午前の授業がやっとの事で終わり、短い昼休みの後、掃除の時間に入った。
森山の担当は図書館だ。森山は図書館の掃除が好きだった。部屋全体の雰囲気もそうだが、本の匂いが好きだった。幼い頃は、よく入り浸って本を読んでいた。
(そういえば…なんて本だっけ…)
「せーんせい!」
「森山くん、さぼりはだめよ」
中年の図書館司書の先生はにっこりと笑いながら言った。笑みを浮かべるたびに皺が寄る。その表情が森山は好きだった。
「男の人が朝起きたら虫になってた話って、知ってる?」
「……ええ。カフカの『変身』…かしら」
少し悩むように俯いたが、すぐに答えは返ってきた。
「それかな、それって置いてる?」
「置いてないけど、私が持ってるわ。読む?」
「ありがとうございます」
にっこりと森山が笑うと、その笑みに司書はにこりと微笑み返した。それが妙にくすぐったく、森山はほっと息を吐いた。
森山はすぐに本を開いた。掃除が終わり、次の授業が始まるまではまだ時間があった。宿題も終わっている。皆が答え合わせをしている間も、森山は本に集中した。普段なら森山もそれに参加していたが、昨日はに勉強を見て貰っており、心配する必要はない。
第一文を読んだ瞬間、森山はぞっとした。主人公の冷静さが逆に怖かった。
虫の描写が思ったよりもはっきりとされていて、グロテスクだ。自分がこんな目にあったなら、発狂していたに違いないと思った。
気分が悪くなるような内容だ。だが妙に引きつけられた。どんどん読み進める。現実には絶対にあり得ないだろう状況に、主人公はどんな事を思い、どんな風に行動するのか、家族はどう思っているのか、どう行動するのか、それが気になった。
「森山」
「ぅえ?」
突然の声に、森山は変な声を出してしまい、咄嗟に手で口を塞いだ。声のした方を見ると、笠松が訝しげな目で森山を見ていた。
「本読んでるとか珍しいな」
「そうか?俺だって本の一冊や二冊読むけど」
「つか、何読んでんの?」
森山は本に視線を戻し、答えた。
「えっと、『変身』って話」
「変身?」
「ある男が、朝起きたら毒虫になってるんだ」
「それ、面白い?」
に話を聞いたときの自分と同じような表情をした笠松に、森山は苦笑した。
「いや、あんまり」
「その割には熱心に読んでたな」
「あー…だって、あり得ない……」
森山は言葉に詰まった。笠松が眉を顰めて森山を覗き込んだ。笠松の大きな目に見つめられると、全てを見透かされそうで怖かった。実際は鈍感な男であり、そんなことはあり得ないのだけれど。
「あり得ないシチュエーションに、主人公はどうすんのかなぁ…なんて…思ってたら、読み進めちゃった」
どくりどくりと、森山の心臓は嫌に大きく鳴っていた。徐々に普通の鼓動に戻ってくるが、息苦しい感覚が抜けない。嫌な感覚が森山を苦しめ続ける。口先だけで森山は笠松の疑問に答えた。
聞いてきたにも関わらず、笠松は「ふぅん」と素っ気ない返事をした。
「なぁ、笠松」
「ん?」
「もし、好きな人が毒虫になっても、そのひとのこと好きでいられると思うか?」
縋るような目を笠松に向ける。笠松はその視線に、眉を顰めつつ答えた。
「……俺は、無理だろうな。だって、中身が大事って言ったって、中身だけじゃねぇだろ?」
「…そうだよな」
目を伏せて、森山はそう相槌を打った。
「あり得ない」と思った出来事は、あり得なくなかった。は経験したり見聞きしたことを必ず実行できる。そう言っていたのを思い出し
これは前世でが森山に教えた話である
、森山はあることを実行しようと決心した。
酷く利己的な理由で、恐らくを傷つけることになるだろうと思いながら、それでも実践してみなければ森山は自分の存在がいつまでも宙ぶらりんな気がした。
「そいつ、……最後どうなるんだ?」
「最後?まだ読み始めたところだからなぁ。読み終わったら教えてやるよ」
「………………いや、別にいいけど」
と、笠松はげんなりした顔をした。
「えー…」
森山は苦笑し、本に視線を戻した。きっとハッピーエンドではないのだろうと、森山は確信していた。
**
「ちゃぁん」
甘い声で呼ばれ、後ろを振り向くとそこにはジンがいた。は一瞬目を丸くしたが、ジンの行動が唐突なのはいつものことだなので、すぐに普段の表情に戻し、ジンに向き直った。
「どしたの?」
ジンは今東京の田舎に住んでいるはずだ。自給自足の生活を送っており、民宿を営んでいる。
「別にぃ。用という用はないけど…暇だった、から?」
こてんと首を傾げる様は愛らしい。ジンはの父親だ。父と言っても、それはただの定義なのだが。ジンはを人外にした張本人だった。
「手違いで殺しちゃった。テヘ。100%僕の過失だけど、かわいいから許してねv」と言われ、
「一応悪いとは思っているんだ。お詫びといっちゃ何だけど、君に僕の知識と力をあげよう。ただ、この知識は人間の身体じゃ収納しきれない。」
とか何とか言って、ジンはを殺し、を転生させた。だから、名義上父親ということになっている。
ジンは少女にも少年にも見える中世的な顔立ちをしていた。外見の年齢は十歳ほどだろう。実際は、の何倍も生きている。膨大な知識量と彼の独特な落ち着きだけがそれを証明している。色素は特別薄くないが、きめ細やかな肌をしており、その真ん中辺り、アメジストをそのままはめ込んだような見事な紫の瞳はこぼれ落ちるのではないかと言うほど、まん丸で大きい。ほんのりと緑がかった白い髪は柔らかに編んであり、布紐を解けば、それは優にジンの身長の二倍を越えるのではないかと思われるほど長い。
「まさか、ジン、田舎でもそんな格好をしてるわけではないよね…」
あまりに人離れしたその姿で田舎生活をしていれば、さぞかし目立つだろう。
「まさか。ちゃんの前でくらい、普段の姿でいさせてよ」
「それは…構わないけど…」
シンは、人と交じって過ごすときには、光が当たると緑がかって見える黒髪を肩くらいまでの長さにしている。姿は相変わらず中世的だ。ジンはあまりその姿が好きではないようだった。
「何か飲む?」
「うん!」
元気の良い返答に、はキッチンに向かった。は甘いホットココアを作りながら、実際は何をしに来たのかと勘ぐった。
「由孝くん、だっけ?」
「うん。そうそう」
「彼、少し君に似てるよね」
「え?そう?」
ジンはの疑問には答えず、にやりと意味ありげな笑みを見せた。こういうとき、決してジンは答えを教えることはない。もそれを承知だ。
「今度、由孝くんに会ってみたいな…」
「うん、紹介するよ。すごく良い子だから」
するとジンは無言になった。
「なんで黙るの?」
「いや、うん、まぁ、そうだね。意外と君は普通の感性を持ってるから、まぁ、性根の良いやつばかりを見つけてくる、………」
そこで一呼吸。
「けど、一見ちょっとゲスっぽいのに惚れることが多いよね…」
「趣味が悪いって言いたいの?」
は溜息を吐いた。ジンは何が嬉しいのか、にこにことしていた。
「特に女性の好みがね」
「それは否定しないよ。でも由孝くんはゲスっぽくないでしょ?」
「そうだね。それはそうだ」
ジンはの反論に、いとも簡単に同意した。しかし心中では、の好きになる男、ないし女は何か問題を抱えた者たちばかりだと思っていた。問題のない人間など居ないのだが、それでも目立つような問題を抱えた者たちを好いてしまうを、ジンはほんの少し心配していた。
「それよりさー。寂しいからたまには遊びに来てよね」
ジンは目を瞑り、慈愛に満ちた顔をした。目を開け、ふわりとを見て笑うと、は一瞬たじろいだ。
「ん?うん。是非」
「美味しいものいっぱい作るね」
そう言ってから何かに気付いたように、ジンはドアの方に目を向けた。そのときインターホンが鳴った。がドアの方に視線を動かし、そして再び視線をジンに戻したときには、ジンは跡形もなく消えていた。残り香さえも残さずに。
は溜息を吐いて、ドアに向かった。こんな時間に誰だろうと思いながら、ドアスコープで外を見ると、そこにいたのは森山だった。は急いでドアを開けた。今日は来るとは言っていなかった。突然の訪問など、森山らしくない。それに様子が少しおかしい気がした。
「由孝く…「先生、毒虫になって」
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