「由孝く…「先生、毒虫になって」
家に入るなり、森山はにそう言い放った。は呆気に取られた。アポ無しで、ドアを開けた瞬間森山がいたことにも驚いたが、何よりその言葉に度肝を抜かれた。それなりにはイケメン設定であるの顔が見るも無惨に歪んだ。それを冷静に森山は見た。あまりにも真っ直ぐな視線に、は森山が冗談を言っているのではないと分かった。
「………ど…どういうこと?」
は冷や汗を掻きながら尋ねる。森山は相変わらず何を考えているのか分からない表情でを見返した。がたじろぐ。
「だから、毒虫になって」
今度もきっぱりと断言した。はついに「聞き間違い」という救いを捨てざるを得なくなった。は息を思い切り吸った。そして、
「確かに変身できるよでもそれを誰かに命令されたことは一度もないしなったとしても猫とか犬とかほ乳類止まりなわけでしかも私の性格を形成した人間だった数年は確かに女性だったわけでべつにか弱かったわけじゃないけどそれなりに繊細だったと思うのですよ、私は」
と森山の横やりを入れることなく、一息に言い切った。
「だから、曲がりなりにも好いている相手から『気持ち悪い虫になって、』なんて言われたら、どういうことだろうかと思うわけですけど、何か言いたいことはありますか?」
はくじけそうになるのをぐっと堪え、泣きそうになるのを我慢し、淡々と述べる。そして、またしても森山はすぱっと言ってのけた。
「ゴキブリでも良いけど」
は少し涙目になった。それを隠すためには手で目を覆った。
「……ごめん、私由孝くんのことが分からない。ってか、傷ついたんだけど…!泣いていい?良いよね、泣くよ、泣いちゃうよ?中身乙女でいい年こいたおっさんが泣いちゃうけど、それを由孝くんは泣かせちゃうんだふーんああそうなんだ」
目に涙を溜めたまま微妙な笑みを見せつつ、は恨み言をつらつらと宣った。森山はばつの悪い顔をした。
「試したかったんだよ」
「私の愛を?」
「いや、俺の愛」
は、目をぱちくりと瞬かせた。しかしすぐに目を細め、相手を責めるように唇を尖らせた。
「………自分の気持ち確かめるために、か弱い乙女に虫になれって言ったんか…」
は脱力した。
「今はおっさんだろ」
「おっさんだけれども!」
はわめく。それと反して森山は淡々とした様子だ。
「………森山さん、は確かに俺で、でも俺じゃなくて、それは、分かる」
「う?うん…」
唐突な話には首を傾げたが、続きに耳を傾けた。
「森山さんは、先生のこと、全部知った上で好きになった、んだよな」
「………多分ね……それまであんまり仲良くなかったし…」
だからこそは森山に真実を告げた。疎まれることも怖くなかった。嫌われるならそれでも良いという気持ちで全てを打ち明けた。
「先生の、こと…受け入れ、たんだよな」
は答えなかった。
「俺は、心臓が動いてない、呼吸音がしない、そんな先生を好きでいて良いのか分からない…でも、でも、好きなん、だ」
震える声で森山は言った。
「好きで好きで仕方ないのに、……でも、なんか、訳分からなく…て、だから、この感情は、もしかしたら、森山さんの名残なのかも知れないって…、思って…」
はすっと目を細めた。俯いたままの森山は気付かない。
「じゃあ、さ、森山くん、別れよう」
「え?」
森山が散々悩んだことを、は呆気なくはねのけた。一瞬で答えを出した。そのことに、森山は冷や水を浴びせられたようだった。
「なん…ってか、何で急に名字呼び?」
森山は焦りを隠すように必死に口角を上げ、苦し紛れに笑みを作った。なぜそんなにも簡単に手放すのかという疑問に嫌な想像をして、森山は鼻の奥がつんと痛むのを感じた。
「だって、君は、私が気持ち悪いんでしょ?毒虫にだってなれる、そんな得体の知れない私が気持ち悪いんでしょ?不快なんでしょ?なら、その好きは、きっと嘘だよ。不快なのに、好きなんて、絶対マゾの人くらいだもん。きっとそれは君の言うとおり、」
森山さんの名残なんだよ
そう言おうとした。だが、森山がを押し倒したことによって、紡げなかった。
「森…」
の言葉は、森山の口内に消えた。の唇に触れた彼の唇が、震えていた。は非情にも、森山の体をぐっと押し返した。
「もりやまくん」
「いやだ」
突っぱねたの手首を、森山は握りしめた。ならそれを解くこともできたが、そうしなかった。常人なら痛みに顔を顰めるどころか、声を上げるだろうほどの力で、森山はの手首をしっかりと掴んでいた。森山の手が、力の入れすぎでぶるぶると震えている。
「やだ、別れたくない」
「でも、気持ち悪いんでしょ?」
は妙に落ち着いた声で言った。森山はのその様子にかっとした。
「気持ち悪いなんて言ってないし…っ」
焦る気持ちを隠す余裕もなく、森山はを睨んだ。いまだに力の入れすぎで震えている森山の手が痛々しくて見ていられないので、は握りしめる手にそっと触れた。すっと力が抜け、森山の体が脱力した。
「俺は、この感情があの人のかもしれないことも、自分の感情だとしたって、それでも、自分の気持ちがあの人に劣ってるみたいで嫌なんだよ…」
「………ん?」
「だから…!」
森山は叫ぶように力一杯、言葉を発した。
「もし、この感情が森山さんの名残だとしたら、俺は、本当の俺はどこにいるんだろって、思ってっ…もしこれが、本当の俺の感情だとしても、あの人に、俺はあんたと、…その…付き合ってるのに、この気持ちがあの人に劣ってるなんて、考えたくないんだよ…!」
「劣ってる?なにが?」
森山の口が戦慄いた。何度も言うには、恥ずかしいセリフだ。滑ったギャグの意味を解説している気分だった。
「………つまり、俺が、言いたいのは………」
「うん」
は茶化す様子もなく、頷いた。
「えっと、だから、あの人の名残の気持ちで俺が振り回されてんのも癪に障るし、」
「ああ、それは分かった。次、何?劣ってるって」
つっけんどんな物言いに、むっとしたが、森山は続けた。
「…………先生は人じゃない、し…そういう、他と違うの、凄く怖くて…得体の知れないって、いうの、?なんか、だって、その…地面に足が着いてない感じっていうか…その、はっきり好きだってことに自信を持てないというか…俺は…あの人の劣化版、なんじゃないか、ってそんな、…風に思って…じゃあ、今俺が生きてる意味って、なんだろ、とか…」
は森山の言葉を噛み砕いて理解しようと、必死に頭を働かせた。
「………森山さんは、私のこと受け入れたのに、自分は受け入れられなくて、君の愛が彼の愛に劣ってるってこと?君の存在を確固たるモノにするためには、君が彼よりも勝っているという証拠が欲しいってこと?」
森山はこくりと頷いた。
「で、毒虫とかゴキとかになった私を愛せたら、森山さんよりも君の愛が勝ってるって、思えるようになって、自分は自分なんだって、そんな風に思えるって?」
再びこくりと頷いた。
「それ、勝率はどれくらいだったの…?」
と、は冷や汗をかいた。
「うーん…正直絶対に無理だろうな、とは思ったけど」
「ですよね!」
やっと冷静になった森山の率直な予想に、はにこっと無理に笑って見せた。こういう冷静に話しているときの森山は、「森山さん」と被って見えた。だが、やはり違うのだ。
「…………いや、うーん、…由孝くんって、昔の記憶が全部在る訳じゃないんだね…」
「そうだけど…」
滅多に感情を露わにしない森山は、声を荒げたことで、すこし憔悴していた。
「あの人が私の話聞いたときね」
にやりとが笑った。森山はそれをぼんやりと見ていた。
「第一声が、『え、なにそれ気持ち悪い』って言ったんだよ」
「は?」
が妙にきりっとした真面目な顔で言った。森山はの表情と作られたテンションの高い声のギャップに目を丸くした。
「それで私が傷ついた!って言ったら何て言ったと思う!?」
「えっと…」
が身を乗り出す。森山は思わずのけぞった。
「『え?脳がないのにどこが、ってかどこで傷ついてんの!?』って聞き返されたわ!」
「あ、うん…そか…」
(確かに、何処で傷ついてるんだろ…)
と森山は頭の中で同じ事を思ってしまった。
は普段の落ち着いたと言うよりは無気力な声音ではなく、珍しく声を張って、うがーと叫んだ。森山はそんなの様子に次第に冷静さを取り戻していった。
「だから、あの日、生まれ変わったら云々の話聞いたとき嘘かと思ったっての」
「嘘、ではないと思う…その、……記憶の中に、……」
「知ってる。素面で会ったときに」
言うつもりはなかったんだ、…その、…忘れてくれ…
「って、か細い声で言われて、寧ろああ本気だったんだなって思ったし。いつもみたいに笑い飛ばせば良かったのにね!」
「ははは…」
「別に、全部好きになってとは言わないよ。私にそんなに良いとこあるとは思ってないし」
と、は自虐的なことを言った。
「まぁ、私は君の全てが好きだけどね」
「………そういうこと言う…」
森山はのそういったストレートに伝えてくる愛の言葉がくすぐったかった。そっと森山はに縋り付いた。やはり、からは何の音も聞こえなかった。心音も、呼吸音も。体の中は空っぽなのだと思うと、やはり少し怖かった。
の存在がこの世界で確固たるものでないのなら、自分の気持ちも確固たるものではないのだと、そんな風に思った。それでもには心があり、森山を好きだと言う。森山は、わき上がる恋慕の念に、やはり自分はのことがちゃんと好きなのだと実感した。
そっと目を閉じると、懐かしいぬくもりを思い出した。と同時に、ちくりと何かの痛みが走った。
かすかに森山が身じろいだのを察し、は腕の中にいる森山を見た。しかし、何も言わずに、はそっと森山の頭を撫でた。
(何か、つっかえてる…気がする…)
その痛みが何を意味するのか分からず、森山は不思議に思った。
BACK ◎ NEXT