八田美咲とは恐らく仲が良くなかった。というよりは、私にとって彼は面倒くさいクラスメイトだったのだ。
八田美咲は、昔九条美咲という名だった。彼の実母の旧姓だ。
「浜谷」
「はい」
担任の先生に呼び止められ、私は振り返った。爽やかな笑みを見せる男性教諭が、私は結構好きだった。
「九条の家、近かったろ。」
「………はい」
「プリント届けてやってくれないか」
「…………はい」
面倒だとは思ったが、当時の私には教師の言葉に背くという考えがなかった。近いと言っても小学生の私にとっては結構な距離だったが、妙な義務感に駆られ、私は素直にあまり印象にないクラスメイトの家に向かった。
ピンポン、一度鳴らす。出てこない。もう一度押す。やはり返事がない。面倒くさくなり、私はポストにプリントを入れて去ろうと思った。そのとき、ガチャリと出てきた少年。肉つきが余り良くなく、顔は少女のようだった。ぼさぼさの髪、だぼだぼの服。関わり合いになりたくない。瞬間的にそう思った。
「いるんやったら、はよ出て来ぃや」
「………だれ」
まわりにいる男子とは違う雰囲気に一瞬たじろぐ。しかし折角届けてやっている私のことを知らぬ存ぜぬなんて言われて、私はカチンと来た。
「クラスメイトの浜谷。プリント」
「………ポスト、入れといて」
「はぁ!?受け取れよ」
おずおずと手が伸ばされ、受け取った。汚らしい外見に反して、仄かに香ったのは小学生の男子がさせるには甘すぎる匂い。
「………明日から学校来ぃや。毎回プリント持ってくんのめんどいから」
「…………夜、遅いから、……起きられない」
「知らんがな。つーか義務教育なんやから、行かな損やで。税金なんやし」
少年は無言で家の中に入っていった。
「礼くらい言えや。クソッタレが」
そう呟いて、私は自分の家に向かった。
次の日の昼休み、がやがやとしていた教室がしんと静まった。何事かと思い、皆の視線の先を見ると、
「九条…」
私の呟きが聞こえたのか、九条は私の顔を見た。縋るような視線に耐えかねて、私は彼の元に向かった。
「席、窓際の一番後ろ。教科書は?」
「………分かんねぇ」
「………席隣やから見せたる」
少年はこくりと頷いて、席に向かった。彼が離れたのを見計らって友人が寄ってきた。
「、九条と仲良いん?」
「…………昨日プリント届けただけ」
「ふぅん」
友人は異質な物を見る目で彼を見た。さぞかし居心地が悪かろうと思った。そういうことを思っていた時点で、彼には私は他とは違う存在として認識されたのかもしれない。
皆が掃除の準備のために机の上に椅子を乗せて、移動させ始めた。私も同じく椅子を上げた。すると、服がぴんと張られた気がした。振り向くと、九条美咲が私を見ていた。
「掃除やで。机に椅子乗せてまずは教室の半分を掃除すんねん。その後、また机後ろにやって、半分を掃除。九条はうちと同じ班やから、ほうき係」
そう言うと、こくりと頷いた。
「分かった」
そんなこんなで、懐かれてしまったのだ。彼は何も知らなかった。ただ算数の計算の速さといったら、目を見張るものがあったのだが。
そんな様子を見た担任は、彼の世話を私に任せた。というより、私に押し付けた。責任感が強かった私にはそれを突っぱねることができなかった。
そうして半年があっという間に経つ。相変わらず九条美咲は私の後ろをついて回った。頼られるのは悪い気分じゃなかった。それが悪かったのだろう。今思えばそうだ。
それも、もう十年以上前の話。もう戻れない過去だ。
**
「ただいまー」
返事が返ってこないことが分かっていながら、私はそう言って帰宅した。
「おかえり」
なぜか八田が出迎えた。
「………………殺す」
「はぁ!?ちょ、ちょっと!待て!殴んな!」
殴ると言っても、ぽこぽこと可愛らしく殴っているだけである。
「なんっで、まだ居んの!」
「これには訳があるんだって!」
誰だって他人がずっと自分の家に居たと思うと、不愉快というか奇妙な感覚だろう。いや、不愉快だ。
「言ってみろ」
「あ?」
「訳!人の家に居座ってる理由!」
普段の倍は声を張り上げて、八田に迫る。彼はたじろいで視線を逸らした。
「…………家、帰ったら…鎌本が…いて…」
「………逃げて来たんか。臆病モンが」
「ぐぅ……………みんなに、気、遣わせちまうから…その、まだ会いたくない…っつーか…」
八田の視線が泳ぐ。私は溜息を吐いた。私の仲間観といえば、何でもさらけ出せる間柄、というものだ。だが八田にとって仲間は対等に渡り合える存在なのだろうと思う。弱い部分を見せたからと言って、対等でなくなるわけではないだろう。しかし今の彼にとって、周防の思い出のたくさんあるあの場所で、仲間と共に悲しむのは、傷の舐め合いであり、自分の立場を下げること。
まずは思い出として語れるようになるまでは、一人で何とかしたいのだろう。
(私も、……相変わらず甘いな…)
これで散々痛い目に遭ってきたというのに、結局は許してしまうのだ。伏見という男もそうだったのだろうか。彼の面倒を見ているうちに、絆されて、そして道を少しばかり逸れてしまったのか。
「…………分かった。でも、もし変な気起こしたらぶち殺すから!」
「そ、それは…大丈夫だ!」
「で、ででも今日の朝、私とでもイケるって言ってた!」
「い、いいいけるけど!既婚者に手出したりしねぇ!」
顔を真っ赤にし、拳を握りしめて力強く八田は叫んだ。
「…………もの凄い不安だ……あれ…美咲くん、私が結婚してるって知ってたの?」
「………カレンダー…」
カレンダー、そこには大きく結婚記念日と書いてあった。なるほど。
「それに、寝袋持ってきた」
何に使っていたのだろうか、という疑問がわき上がった。それが顔に出ていたのか、八田は自信満々に言った。
「猿比古が来てたときに使ってたんだ!」
「あ、そう…」
目の前にいる八田は元気に見える。
「美咲くんさ、『尊さん』のことはもう…」
私は自分の考えが甘かったことに気付かされた。八田の目にはみるみるうちに涙が溜まり、ぼたぼたと流れ落ちた。
「あれ、……ごめ…ごめ……違くて…」
「良いよ、泣いとけ。我慢したって意味無いし…」
尊さん、と何度も名を呼んで涙を流した。
ぽんぽんと頭を撫でる。存外、ふわふわとした感触に、祖母の家にいた猫を思い出した。私が祖母を亡くしたとき、こんなに泣いただろうか。確かに葬式の時にボロ泣きした。ふと思い出して、じんわりと胸が痛むのを感じることもあったし、時に泣きもした。しかしここまで?
この男は極端に人との離別が苦手らしい。
伏見猿比古に裏切られ、十束多々良が殺され、周防尊は帰ってこなかった。それが未だに整理できていないのだ。
周防は皆がそれぞれの道を歩めるように誰にも自分が生きていることを知らせず旅をしているのだろうか。もしも本当に自分がいなくなっても、大丈夫なようにと。
というのはあっさりと宗像に否定されたのだが。
「あの男がそこまで考えて行動する人間だと?」
私もその意見に納得してしまった。だが本能的にそのように行動しているのかもしれない。八田の様子を見ているとそう勘繰ってしまう。
「あ、俺夕飯作ったんだ。食うだろ?」
涙を腕でぐいっと拭い、八田は私にへにゃりと笑いかけた。
「あー…うん。少なめで」
「もしかして食ってきた?」
「アンタの作るんはいつも量多いわ」
私に対してはこんなにも弱いところを見せるのに、とキッチンに立つ彼の後ろ姿を見ながら思った。
八田ライス、と呼ばれているらしい炒飯を作るような男だが、実のところ普通に料理はうまい。炒飯だってレシピを見れば普通に作れるはずなのだ。
「好き嫌いあったっけ?」
「いや……グリンピース系が苦手なくらい…」
水菜のサラダはどうやって作ったのか、美味しいドレッシングがかけてある。(家にあるドレッシングとは味が違う)湯気立つクリームシチューを口に含む。市販のルーを使っている、と思われるが、どこか味が違った。
「旨い」
「そっか、良かった。にはいっつも世話になってばっかだしさ、なんか役に立ちたくて」
「………そうだっけ」
「おう!小学校の時、俺、何も分からなくて、そん時、お前がさりげに助けてくれたじゃん」
「………ああ…うん、そうだったかも…」
その認識が私だけのものでないと知れて、少しむず痒かった。
****
この日も八田を家に残し、私は仕事に出ていた。もうあのダモクレスダウンから五日が経っていた。私の業務は既に通常に戻っていた。こうやってあの日のことは風化していくのだ。そうやって人は忘れながら生きている。それが八田には理解できないらしいのだが。
「浜谷さん、荷物届いていましたよ」
帰り支度をしていると、上条がそう言って大きな箱を持ってきた。
「ありがとう…」
箱を開けると、大量のお土産が入っていた。小さなものが二つ、大きなものが複数。そして手紙が入っていた。あまり綺麗な字ではない。
沖縄。
寒くない。海は綺麗だ。今度連れて行ってやる
おみやげは宗像と、吠舞羅に
それだけかい、とツッコミを入れ、私は手紙をクリアファイルに入れた。近況はメールで報告を受けているので、別に構わない。
「修学旅行は沖縄だったっての…」
小分けにできる袋が入っていた。恐らく宗像宛てと思われる菓子を袋に入れて机の上に置いた。帰る支度をして、執務室の電気を消して鍵を掛け、そして防犯システムを掛けて宗像の室長室に向かった。
ドアの前、伏見猿比古がいた。
「宗像室長おられますか?」
「……いますよ…」
不機嫌な顔で伏見は答え、ドアを開けて中に入れてくれた。生理中?と聞かなかった私を褒めて欲しい。恐らく帰り支度をしている私を見て機嫌が悪くなったのだろう。セプター4は遅番がある。彼が遅番かは分からないが、彼の机の上には大量の書類が積んであるので、しばらくは帰れまい。
なにやら指示をしていたらしかった宗像がこちらを見た。
「どうかされましたか?」
「お土産」
「お土産?」
宗像はおずおずと受け取って中身を確認する。
「うん。沖縄の」
と言うと、宗像は無言で袋を大きく振りかぶった。
「作った人に罪はないからぁ……!」
「…………失礼、取り乱しました」
私の必死の訴えに、宗像は腕を下ろした。セプター4の面々が目をひん剥いて驚いている。それはそうだろう。ここでは人格者、冷静、などといった性格で通っているのだから。眼鏡を直しながらも、息はまだ少し荒い。相当ご立腹なようだ。
「…………沖縄で、ちんすこうじゃなくて、いや多分ちんすこうもお茶に合うのは合うだろうけど、一応お茶に合いそうな和菓子的なものを送ってきたってところを評価してあげようよ…」
宗像は無言で菓子を眺めていた。少し目が恐い。ちなみに吠舞羅へのお土産はちんすこうだった。
「今日はお帰りですか」
「うん、こっちの扱うのははしょっちゅう起こるような案件じゃないしね。あ、でも明日は面会入ってる」
「そうですか」
「で、あれ、いつからにする?」
「そうですね。年明けからと考えています」
「分かった。………本人には早く言った方が良いよ」
ちらりと話題の渦中にある伏見を見た。すでに業務に戻っており、凄まじい気迫でキーを叩いている。
「ええ、そうですね」
にこやかに宗像は応えた。
「じゃあ、私これから用があるので、これで失礼します」
「はい。お気を付けて」
「ありがとう」
今日も今日とて、セプター4の皆々様、遅番ご苦労様です。と心の中で合掌しながら、私は帰路についた。
「今日は遅くなります」と八田にメールを送り、折角定時に帰れているのに、私は今日も余計な寄り道だ。家とは逆の方向に歩いていく。
「あれ?ちゃん?」
人気の少ない裏道に入ったところで、呼び止められた。
「美幸さん。お久しぶりです」
「そうよ〜…たまには家に来てね」
八田美幸、八田美咲の義母である。一応血縁関係から言うと、彼の叔母に当たる。こぢんまりとした小料理屋を営んでいる。八田美咲を女性にして少し大人っぽく、性格をおっとりとしたものにした感じ。親子と言っても遜色ないほど似ている。
「はい。是非」
「そういえば、美咲くん、お世話になってるみたいで…本当に貴女には足を向けて寝られないわ」
「いえ、そんな…」
ぶんぶんと手を振って、彼女の私に対する過大評価を否定するが、すぐに否定仕返されてしまった。
「ううん、貴女が居なければ、あの子はここには居ないんだから」
「…………はい…」
こんな風に感謝されるのは気恥ずかしい。ただ感謝されなかったらされなかったで、恩着せがましい文句は出たのだろうが。
「ちゃんが嫌なことは、ちゃんと言ってあげてね」
「え…」
美幸は困ったような表情で言った。私の返事が曖昧だったことを、気にしたのだろう。
「正直全く嫌という訳ではないんです。頼られてるのは嬉しいし…」
結局のところ、そこなのだ。こうやってダメな男に引っ掛かるのだと分かっていながら、放っておけない。金銭的余裕があるので、確かに今の状況に困っているわけではなかった。家事も全てしてくれている、少し愚痴っぽい家政婦を雇ったと思えば、多少の出費も文句は言うまい。
「今の状況、というよりは…あのときから今まで、彼と私の関係が続いていることに、少しの違和感というか…あのときの私の置かれた状況に釈然としないというか…」
「…六年、だものね…」
「はい…」
六年もの間、私が彼が目覚める手助けをしていたのは、今思えば責任感と優越感からだ。彼が目覚めるかどうかは私に掛かっていたのだから。私は彼の命を握っていた。だからこそ彼を放り出してしまったら、私は一生彼を見殺しにしたという罪悪感を背負うことになる。そんなことはごめんだ。
**
bar HOMRA、吠舞羅のNO.2が経営する店。美幸と別れてから真っ直ぐにやってきた。本来の目的だ。八田美咲がちゃんと生きていることを伝えてやらないと、大事になるかもしれないと思ったのである。
吠舞羅は解散したと八田から聞いている。だが吠舞羅に恨みを抱く連中は多く、その後始末はここのマスターが務めていると思われ、八田はその標的になりかねない。その状況下で、八田の行方が分からなければ、彼らも動くだろう。
ならば、元とはいえ赤のクランの起こした事件の処理はセプター4の仕事。とすれば、私にもそのしわ寄せがくるかもしれない。面倒事は御免だ。
「いらっしゃいませ」
穏やかな、そして懐かしい京都弁に迎えられ、少し気持ちが和らいだ。
「えっと…」
客として接すれば良いのか、どうか。
「一応客ではないんです…あ、でも飲んでいきます」
「はぁ」
彼が不思議そうな顔をしたので、私は俯いてカウンターに座った。
「えっと…こういうお洒落な店、初めてで…甘いお酒…しか飲めないん、ですけど…アルコール濃度は高めでも大丈夫で……いえ、低いのでお願いします」
「かしこまりました」
にこりと笑った顔に不覚にもときめいてしまった。セプター4といい、吠舞羅といい、イケメンばっかか!と心の中で叫びつつ、居住まいを正した。
「私、浜谷と言います。貴方は、吠舞羅のNO.2、草薙出雲さん、ですよね」
ためらいがちに尋ねると、草薙は一瞬目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。しかし部屋の隅にたむろする集団が僅かにどよめき、私は体を縮こませた。
「もう解散したけどな」
「はい…知ってます…」
コトンと置かれたグラスの中は綺麗なクリーム色だった。草薙の顔を見上げると、
「カルーア・ミルクです」
つらつらと講釈を述べるのを聞きつつ、(覚えているのは名前くらいだ)一口口に含んだ。
「美味しい…」
くぴくぴと飲む。
「それは良かったです」
聞きなれたイントネーションはやはり心地が良かった。
「で、どんなご用件で」
「…………おかわり…」
「ウィ…」
テキパキとカクテルを作る様は一種の芸術だ。その所作に見惚れていると、コトリと同じ色のカクテルが置かれた。
「八田美咲くんを預かってます」
言い方が悪かった。吠舞羅の人たちが殺気立ったのを感じ、私は再び萎縮した。彼らを草薙は手で制した。相当の決定権があるらしく、彼らは大人しく引き下がった。
「えっと、何と言えば良いのか…押しかけて?来て、今は皆さんと会いたくないって、言ってました」
「八田ちゃんが…」
草薙は遠く寂しそうな表情をした。私は慌てて弁解した。
「あ、嫌いになったとか、そういう事ではないんです!ただ…一人の時間が欲しいらしくて、その、みんなに気を遣わせるのが嫌って言うか、多分、気を遣わせちゃう自分が、嫌で、ふがいなくて、って思ってるんだと、思います」
うまく言えなかったが、言いたいことは伝わったはずだ。多分。
「八田ちゃんらしいなぁ…ほんま…弱味見せんの苦手みたいやね」
「……そう、なんですかね…」
八田は嫌われるのが嫌なのだろう。弱いところを見せれば、自分から離れていく、そう思っている。流石コミュ障野郎だ、と私は妙に納得した。
「ああ、でもお姉さんには、見せてるんやろか」
彼はにんまりと笑った。八田との関係を勘繰っているのだろう。
「………私は………今更って感じなんじゃないかなって思います……彼が幼い頃から見てきましたから」
彼が眠っている間の五年間を引いても九年の付き合いになる。
グラスを傾け、中の氷をくるりと回した。ぼんやりとその氷を見つめると、彼の姿が思い浮かんだ。私の中の彼はいつも情けない顔で不安げに立っている。
「一回だけ、吠舞羅の美咲くんを見ました。美咲くんって、あんな風に笑うんですね。私は苦笑いばっかり、見てきたから、なんか不思議で…あんなにキラキラした目の彼を見たこと、なかったし…」
「そうなんや…」
「はい…」
あんな姿を私にも見せてくれれば、きっと私は彼を男として見ていただろう。だがそんなことは無かったので、結局友人というポジションに収まっている。
「そういえば八田ちゃんとはどういった関係で?」
「ともだち、ですかね…」
「……未成年やないよね?」
草薙のグラスを磨く手がぴたりと止まった。
「あ、大丈夫です」
と言って、身分証を提示した。端末に示された情報には、しっかりと25歳の文字。
「…………この名前…アンタ、セプター4かいな」
彼の目が職業欄を凝視している。彼の呟きに男達ががたっと立ち上がった。思わず声が漏れた。
「お前ら、いい加減にせぇ!……ほんまに…すまんなぁ」
一応客として扱ってくれるつもりらしい。草薙が彼らを叱りつける。八田の仲間たちは口々に反論するが、今度は視線だけで制した。しかし草薙自身、少し私を疑い始めたようだ。
「…敵じゃない…」
突然あらぬ方向から声が聞こえた。心臓が飛び出るかと思った。何のことはない、そこにいたのは小柄な少女だった。周防から十歳ほどだと聞いていたが、私の十歳の頃とはえらい違いだ。
「アンナ、どないしたん。起こしてもぅたか」
草薙が優しく問いかけると、ふるふると少女は首を振った。
「、ミコトの友達…ミサキとも、友達、だから、悪い人じゃない…」
「なんや、尊とも知り合いやったんか」
「ああ、はい…まぁ…」
アンナの鶴の一声で、場は収まった。ほっと胸をなで下ろした。
「この子は、アンナいうんです」
「はい。話は聞いてます。尊くんから、男所帯で色々と問題もあるだろうから、自分が居なくなったときには頼むと言われています」
「さよか…あいつがなぁ…」
懐かしむように草薙の視線がふわりと宙をさまよった。
「はい。あ、これ、日本全国旅してる友人からのお土産なんですけど、良かったらどうぞ」
「それは、…おおきに」
草薙は両手で受け取った。彼のその手を見て、なぜか私は周防の手紙を思い出した。
(そういえば…尊くんって、吠舞羅って漢字書けたんだ…ってか、宗像くんの名前も書いてあったっけ…)
と、妙に感心してしまった。宗像はどんな字だったか、と少し焦った。
「あ、そろそろ…行きます…えっと、ありがとうございました」
「こちらこそ、わざわざおおきに」
会釈をしてHOMRAのドアを閉めた。しばらく歩いたところで呼び止める声が聞こえた。
「」
「どうしたの?」
てこてこと走ってくる彼女の視線に合わせて体制を低くする。
「あのね、ミサキ、いつもにごめんって、言ってた。アカ、ミコトのアカを見るたび、…」
**
目覚めは良かった。昨日HOMRAに行って、不安材料が一つ減ったからだろう。
しかしアンナの言葉が私の胸の奥で引っかかっている。八田美咲がずっと私に対してどう思っていたのか、それが彼女の一言をヒントに解決間近まで来ている。後は私が勇気を持ってそれを本人に確認するだけだ。
あの頃のことが、今更ながらに一つ一つ解決していっている。もう十年も前のことなのに不思議だ。こんなにも時があいてしまったのは、今まで私が故意にあの時のことを忘れようとしていたからだろう。
轟々と燃えていた。彼の家が。彼と母の住む家が炎に包まれていた。八田は私が引きとめたのだ。だって彼はその炎の中に飛び込んでいこうとしたから。母の元へ行くのだと、言ったから。
目の前で朝食を取る八田美咲を見て、私は今日中に決着を付けようと思った。いい加減私は解放されたかった。
「そういえば、昨日伏見くんに会ったよ」
正しくは二度目の逢瀬だったが。
「って、結構胸大きいよな。昨日ブラ取り込んでて思ったんだけど」
「テンパりすぎだろ!ってか、やっぱ洗濯は私がするよ!」
あからますぎる話題変更だ。
私のブラジャーを見てそんなことを思っていたのかと怒るべきか、ウブな八田がすらすらとそんなことを言えてしまったことに対して心配すべきか、悩むところだ。
しかも言った本人が一番落ち込んで机に項垂れてしまっている。
「………伏見くんを意識しすぎだよ、美咲くん」
「………分かってる…」
「君は、さ、どんなに距離を置こうとしても、無理なんだよ。伏見くんのこと、好き、というか、彼がいないとダメなんでしょう」
無言だ。とにかく今はこの話題を置いておいて、本来の目的を果たそう。朝の時間はとても貴重だが、このことを解決しておかねば、今日一日の業務に支障が出そうだ。
「あのね、美咲くん」
「ん?」
すぅっと深呼吸をして、意を決して切り出した。
「昨日、言いたかったこと、」
「…………うん、」
八田は、しっかりと頷いた。
昨日の晩、私が帰ると、彼は真っ暗な部屋で座っていた。
「ただいま…先寝てて良いんだよ」
「…………おかえり…」
「なに、今の間」
八田の目が揺らいだ。
「いや、何でもない」
「なんでもなくないでしょうが……って、何涙ぐんでんの!?」
私が詰め寄ると、彼の瞳が潤んだ。
「いや…匂いが…」
「匂い?」
HOMRAの店の匂いを引き連れて帰ってきてしまったらしかった。それが彼の涙腺に訴えかけたようだ。
「お前は犬か……ってか…怒った?勝手に、」
「……いや、気、遣わせて悪かったな」
ぐっと涙を我慢したぶさいくな顔で、そう言った。今思えば、彼はいつもそうやって私に対して何の反論もしない。それがアンナの言っていた罪悪感からの行動なのだとしたら、どれほどの感情を彼は押し殺してきたのだろうか。
「あのさ、美咲くんが………いや、なんでもない。忘れて」
「何だよ、気になるだろ」
「………待って。いつか、絶対…ううん、明日、言う」
「分かった。無理、しなくて良いから」
そう言って笑った彼の顔は、結局満面の笑みからはかけ離れたものだった。
《ミサキは、に申し訳ないって思ってる。罪悪感を、いつも持ってる……でもね、本当はともっと仲良くなりたいって思ってる…》
そう昨日アンナが言った。なんだそりゃと思わずにはいられなかった。そんなことを思っていたのかと。そのことを聞かねばならない、そう思った。
「昨日、言いかけた…ことだよな」
「うん……あのさ、美咲くんは、私が君を恨んでると思ってる?」
八田の視線が逃げた。
「あ、たり前だろ…だって、お前が…」
真剣な顔で、八田は私を見つめた。その目つきの悪い目を見返し、私はゆっくりと、そしてはっきりと言い切った。
「私、自分でこの道を選んだ」
「けど、だって…もし、あん時のことがなくて、一生力を封印してたら、……………お前は、普通に…」
悔しげな声で、絞り出すように言われた。
「うん、普通に企業に就職して、普通に普通の男の人と結婚して、家庭を持ってたかもしれない。でもね、この力があっても、そんな未来が私には待ってたはずなの。全く力を使わないで居る未来もあったんだよ。ってかその君の罪悪感ウザい」
「なっ…人が散々……」
前に体を乗り出して、八田の髪を掻き回した。
「ばかじゃないの」
「はぁ!?」
八田は声を荒げた。
「本当、超絶ウルトラ馬鹿。本人が良いって言ってんだからそれで良いだろうが。申し訳ないって思うんなら私に感謝だけしてろばーか」
「う…」
私が捲し立てると、怯んだ。
「それとも、あの時助けたの、怒ってんの?」
「それはない」
「ないんだ。意外。死にたがってたのに」
即答だったことに私は少し驚いた。炎の中に飛び込もうとする彼の後ろ姿を思い出した。
「………し…」
「ん?」
ぼそりと何かを言ったようだが、聞き取れなかった。
「だから!それだと、尊さんにも、その、さ、猿比古にだって会えなかった、し…」
「素直に言えた、よしよし」
「子供扱いすんな!」
頭を再び撫でると、すぐにその手を払いのけられた。
「まだ感覚的にはアンタ未成年じゃん…………………あ、もう行かんと」
時計を見ると、出る時間が迫っていた。
「うわ、ほんとだ。片しとくから、」
「うん」
ばたばたと歯だけ磨いて玄関に向かった。ぱたぱたと後ろから八田も付いてくる。コートやマフラー、帽子を持って来てくれたのだ。
「………ってかさ、俺、顔に出てた?」
「何が?」
一つずつ防寒具を受け取りながら聞くと、気まずげに八田は視線を足下に落とした。
「いや、………俺があの時のことでお前に申し訳ないって思ってたの…」
「昨日、アンナちゃんが教えてくれた」
早口に言うと、八田は目をまん丸にして驚いていた。
「え」
「じゃあ行ってくる」
「お、おう、いってら」
言い逃げるように、私は出かけた。エレベーターに飛び乗り、ずるずると座り込んだ。
「良かった…」
私は、私こそ彼に恨まれているのではないかと思っていた。ずっと罪悪感を持っていた。だって彼は母親を失ったショックで五年も目を覚まさなかったのだ。あの時一緒に死にたいと思っていたのではないか、私のしたことは彼にとってお節介だったのではないか、そんな思いがずっと心の奥底にあった。
「ほんとうに…良かった……」
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