毒薬
僕は日課、と言っても始めて2日だったが、のジョギングを終えて、風呂場の蛇口を捻った。お湯に変わっていない冷たい水を浴びながら、この家の主はまだ夢の中かもしれない、ふとそう思った。人ではない彼女が夢を見るのかは定かではないが、と考えはしたが、それ程深く考えることでもないと思考を打ち切った。彼女が夢を見ようが、見まいが自分には関係のないことだった。ただ、何となく彼女の事を考えただけだ。理由などない。助けて貰った恩は在れども。
無機質な冷たい床が火照った体を急激に冷やしていくような錯覚に陥った。サー、噴出される一定の暖かさを保つ湯を浴びながら、どうしようもない居心地の悪さを感じた。この時代は、便利な世の中だと思う。だが自分には合わない。
温い世界、戦いを知らぬ人間がのうのうと生きている。そういえば彼女が言っていた、今戦争が起きたなら、人は何に縋って、何を掲げて、何のためになら戦場に行けるだろうか、と。自分は近藤さんの為になら、死ぬ覚悟が出来ていた。
今も彼のためならいつでも死ねる。
天子様も、将軍も、仕えるべき主君もいない、この世界はあまりにも不安定に見えた。
**
カタン、と音を立てて浴室の扉を閉めた。上質な大きな手ぬぐい、バスタオルで水分を脱ぐっていく。この家で音を立てているのは自分だけ、気配が極端に薄い彼女等は寝息すら立てない。
暖かなシャワーを浴びたはずなのに、寒々しく体が震える。ぽっかりと穴があいたような、そんな寂寞を感じ、自分はこんなにも弱い生き物だったのかと、鼻の奥がツンとした。
いや自分は気付いていたはずだ。近藤勇という男の為と言いながら、そこに縋っている自分がいたことに。
静かな朝は、あの町と同じだった。自分がいるはずの、あの京の町。
ただ日の出ていない暗い街を変な色の灯りが照らしているという点を除いては、この住宅街は全くあの町と変わらなかった。若者が少ないためか、夜はとても静かなのだと彼女は言っていた。
一度だけ連れて行ってもらった京の街は、夜だというのに人が溢れ、煌々と色取り取りのライトに照らされ、色めきたっていた。佐之さんと新八さんに引っ張られていった吉原のようで、偽りの自分でしかいられない空間が嫌いだった。気持ち悪い、ただ単純にそう思った。
ジリジリと焼け付くような焦燥感が胸を締め付ける。自分に穏やかな生活など似合わないのだ。色々なことを考えてしまう。
剣を振りたい。
**
居間に入ると、まだ暗い部屋の中、途方もない焦燥感と喪失感が体を襲う。ジリジリと胸の辺りが焼け付くように熱い。それを打ち消すために、やかんに手をかけた。
そういえば、自分はいつもいれて貰う側だったような気がする。たまに近藤さんにいれてあげるくらいで、殆ど自分ではいれない。
気付いたら、湯飲みからお茶が溢れるほど並々と注いでいた。丁度良いところまでお茶を湯飲みから捨てると、何故か悪いことをしているような気分になる。なにをしていても思い知らされる。ここは、自分の居るべき場所ではない、と。勝手に使った風呂、勝手に使った湯飲み、勝手に…。
ぶんぶんと頭を振り、全てを打ち消そうとしたが、胸の熱さはどうにもならなかった。ぐいっと、湯飲みを煽った。ふと、見た湯飲みの底、
ああ、これが一瞬で死ねるような劇薬であったなら
そっと口を外し、自然な動作で湯飲みを置いた。ことんと静かな部屋にやけに響いたその音に、自分はどうかしていたのだと気付く。
死にたいわけではないのだ。実際、例えばもし誰かがこれは「一瞬で死に至る薬だ」と渡してきたそれを、自分は何の迷いも無しに口に入れるだろうか。
恐らく自分はその人間を殺してやろうとは思っても、絶対にその薬を飲もうとは思わない。それが単に偶然のことだったり、あちらから向かってくるものであったならば、自分は何もせずに受け入れる、それだけのことであって。
だから、今飲んだ茶に毒が入っていても、別に恨んだりしない。仕方ないと割り切ってしまえるだろう。
どこまでも受身的な自分に嫌気がさした。死ぬ覚悟がないくせに、それが事故であったなら、自分は躊躇いもせずに死ぬ向かうのだ。
こんな所で、死にたくない。帰りたい。近藤さんの傍で、近藤さんの為に死にたい。
柄にもなく、泣きそうになった。ぐっと堪えようとしたが、後から後から不安が襲ってくる。
「…っ……」
誰か…!
と助けを求めた瞬間、涙が零れる瞬間、あることに気が付いた。風が流れている。かすかではあったが、確かに。扉は閉じたはずなのに?
そっと後ろを振り返ると、そこに立っていたのはこの家の主だった。
「…おはよう」
「…おはよう、ございます…」
最初は疑いもしたが、彼女がすぐに敵でないことは分かった。嘘を吐くのがそれほど上手くないことも。数日の付き合いだったが、確かだ。
彼女は不思議だ。敵意を削がれる。彼女は戦いの無い平和な場所で生きてきた人だ。何となくそう思った。だから戦う気が起きない。
自分はきっと、この平和な場所で、この優しい場所で生きてきたこの人の傍で、朽ちていくのだろう。そう思うと、酷く己が滑稽に見えた。
そんな僕が、彼女の傍で安らぎを感じるようになるのはもう少し先。
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