| は、自動販売機でお茶を買った。ガコン、と落ちてきたペットボトルを取り、ぐびぐびと飲んだ。まだ半分ほど残っているボトルに蓋をして、は溜息をついた。 「はぁ…」 黒羽丸と初めて会った公園のベンチを手でなぞり、何とはなしに座った。手の中のボトルをゆっくりと傾けると、中のお茶がゆらゆらと回る。中で揺れて、ボトルの壁にぶつかってちゃぽんちゃぽんと音を立てている。 「黒羽丸さん…」 名を呼ぶたび、じんわりとした熱が全身に行き渡るような気がした。 「黒羽丸さん…黒羽丸、さん、黒羽丸さ…くろ…」 「連呼するな」 「っ……」 何度も何度も繰り返し脳内で再生してきた声が、驚くほど近くで聞こえた。は泣きそうになるのを堪えて、顔を上げた。 「くろう、まるさん」 幻ではないか、そう思って、は黒羽丸に手を伸ばした。 「先ほどは…すまなかった。気が立っていて…」 「あ、えっと、それは…俺も、そのごめんなさい」 (黒羽丸さんに欲情してたなんて言えない…) は手を引っ込めた。 黒羽丸は俯いていて気付かなかった。 「あ、の、…だな……あの、お前が…その…」 「黒羽丸さん?」 「その…」 そのとき、一瞬にして黒羽丸の体に黒いもやのようなものが巻きついた。 「っ…!」 は手を伸ばしたが、届かなかった。凄い勢いで黒羽丸の体がもやに引っ張られる。は必死に走った。距離が離れそうになる。咄嗟には黒羽丸の袖口に自分の携帯電話を放り込んだ。 足が絡まって、こけた。 「…!」 黒羽丸はに手を伸ばしたが、黒羽丸は闇に呑まれてしまった。 「黒羽…丸さ…」 ぽつりと黒羽丸は呟いた。しばらく呆然と座り込んでいた。 「えー…やだぁ!もう!」 ははっとした。女の声で現実に引き戻された。頭を振って、はスマートフォンを取り出した。 (何やってるんだ…) 元々の兄の物だったスマートフォンは、の居場所が分かるように登録されていた。そしての携帯電話は、今黒羽丸の裾の中にある。 そこまで考えての行動ではなかった。だが、緊急事態に頭よりも先に体が動いていたのだ。 「黒羽丸さん……!」 あの日妖怪に襲われてから、常に護身用に持っていた刀を握り締めて、は走った。 (こんなもので、どうにかできるとは思わないけど…) そう思いながらも、は走った。 「ん…?あれは…」 リクオはいつものように夜の散歩に出ていた。黒羽丸のことを心配して、夜の姿で出て来たのだ。つまりは、出歯亀である。 そこで、目立つピンク色の髪をした男が必死に走っていた。ただ事でない様子は、上空からでも見て取れた。 「これは、何かあったな…」 リクオはそう呟いて、地上に降りた。誰かを連れて来た方が良いかとも思ったが、そのまま一人で後を追った。 「う…」 黒羽丸は目を覚ました。まだ外は暗い。どこかの倉庫らしい。 バラの茎のようなものが体のいたるところに絡まっている。茎といっても太さは人の大腿ほどの太さだ。さほど鋭くない刺だが、じくじくと肉に刺さり、血が滲んでいた。 その茎の周りには黒い靄が漂っていた。靄が本体なのか、茎が本体なのか、はたまた本体は別にあるのか、全くその全貌は分からない。 (は無事だろうか…) 黒羽丸は何の疑問も感じずにそう思った。黒羽丸は溜息を吐いた。 (もう、ずっと前から分かっていたはずだ…もう、他人じゃない…) こんな訳の分からないものに消されて堪るか、そう思い、黒羽丸は茎に爪を食い込ませた。白い蜜のようなものがじわりと溢れ出す。だが、茎自体には何の反応も無い。暴れるわけでも、黒羽丸を更に締め付けるといったこともない。 黒羽丸はコレがただの得物を縛っておくためのものに過ぎないと理解し、どうにか逃げ出そうと体を捻った。だが、刺が黒羽丸の体をさらに痛めつけた。 翔に怖い思いをさせてしまった、それが気がかりだった。 「黒羽丸さん」 黒羽丸の体がびくりと跳ねた。幻聴まで聞こえるなんて、と黒羽丸は、己に呆れ果てた。だが、それは幻聴ではなかった。 「…黒羽丸さん」 小さな声だが、確かに聞こえる。 「…?」 「はい…すみません…来ちゃいました」 GPSの情報を元に、は黒羽丸のいる場所を見つけた。周りには何も無かった。ぽつりとこの廃倉庫だけが存在していた。 は静かに、周りを確認しながら、ひっそりと黒羽丸のそばまでやって来た。 「お前…」 黒羽丸は困惑した。いくら通常の状態でなくとも、息が届くところまで近づかれて気付かなかったことに、黒羽丸は酷く驚いた。 「待っててください、」 そう言って、は持っていた刀で黒羽丸を縛る茎に刃を立てた。その瞬間、乳白色の汁が吹き出した。ぱたぱたと、の顔を濡らした。 「っ…」 「…?」 は顔を顰めた。黒羽丸は訝しく思い、の顔を凝視した。 「何でも、……無いです…」 「お前、それ…」 の様子を見て、黒羽丸は狼狽えた。 その液体は、人に有害なものだった。妖怪である黒羽丸には何の変化も無かった。しかしの体は、液体を浴びてから明らかに様子がおかしかった。息も絶え絶えで、熱に犯されたように顔が赤く、瞳は虚ろだった。 「、もう良いから、逃げろ。お前だけでも逃げろ」 「そんなことできません」 「できる、」 は黒羽丸の提案を間髪入れずに拒んだ。そして、黒羽丸も即答した。 「俺のことなんて忘れて、」 「できません!」 は声を絞り出した。黒羽丸は、顔を歪めた。唇を引き絞り、を睨みつけた。虚ろな目で、はその視線を受け止めていた。 「お前は……俺のためには命は捨てられないといっただろう!死ぬかもしれないんだぞ!?もう、二度と、親しい者に会えなくなるかも…」 「それでも!……それでも、できません」 は黒羽丸の言葉を遮り、言い切った。黒羽丸は項垂れた。 「なぜだ、」 黒羽丸は、切羽詰った、絶望を孕んだ声で、に問うた。 黒羽丸は願った。逃げて欲しいと。逃げて生き延びて欲しいと。 だが、は頑なにそこを動こうとしない。 「ここで、逃げたら、もう二度と貴方に会えません……」 ぽつりと、は呟いた。黒羽丸はその様子を静かに見ていた。普段の様子と違う弱々しい口ぶりに、黒羽丸はがどこか遠い世界にいるのではないかという感覚を覚えた。 「死ぬ、のは怖い、怖いです。手も震えてる、逃げ出したいって思う、でも、それでも…黒羽丸さんが、死んだら…そう考えると…」 は言葉を切った。苦しげに歪められた表情は、最悪の事態を悟っていた。黒羽丸はそれを呆然と見つめていた。 「どうせ、どうせ貴方と二度と会えなくなるんだったら、俺は最後まで黒羽丸さんを、この目に留めていたい……」 は黒羽丸の頬を優しく撫でた。だが、眉は顰められ、表情は苦しげだ。そして、一種の諦めのようなものが見えた。 「最後の最後まで、黒羽丸さんを見つめていたい、最後の時まで、貴方を」 「……お前は、」 にとっては、自分が死んで黒羽丸に会えなくなるのと、黒羽丸が死んで会えなくなるのとでは、全く同じことだった。 しばらく二人は、口を閉ざした。まるで義務であるかのように、黙々とは黒羽丸を拘束している茎を刀で斬りつづけた。 の顔は段々蒼白になっていく。黒羽丸はそれをじっと見ているしかできなかった。 「黒羽丸さ…」 「…」 時折、うわ言のようには黒羽丸の名を呼んでいた。それに、黒羽丸は何度も応えた。 どれほど経ったのか、時間の経過は分からない。もう少しで、黒羽丸を解放できる、そのときだった。 「っ…!、後ろ!!」 黒羽丸は叫んだ。 の背後に黒い靄が集まり、形を為していた。 は振り向きざまに黒羽丸を守るように、両手を広げた。 黒羽丸は目を細めた。 (ああ、なんだ、は俺のために、全てを投げ出してくれる…) BACK or NEXT |