私がこの世界に来て22年。
ユーリの母であるマリアが死に、私が殉職したことになってから14年。人魔戦争が終結してからさえ、もう10年になる。


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今日は朝から騒がしい。その喧騒の中、私は目を覚ました。喧騒といっても普通の人間には聞こえないだろう、遠くの騒ぎだ。ざぷんざぷんと内陸地ではありえない音がしている。さすがに物語の導入部は覚えていた。遂にこの日が来たのだ。
ここまで何もしなかったということはない。それでもこの日を迎えるに至ってしまった。

緩慢に起き上がり、私は服を着替えた。朝日も上がりきっていない時分、しかし特別早起きというでもない時間で。活動を始めた方が良いのだが、今は気分が乗らない。今は、というよりももうずっとだ。再びベッドに体を横たえ、目を閉じた。

遂にこの日が来た。また思った。
レイヴンとして生きている彼がいるのを知っている。だからきっと「順調に」ストーリーを辿っているのだろう。
そういえば一度彼を助けたことがあった。咄嗟に手が出た。何も言わずに去ったので、さぞや不審がられただろう。そのあとで、あの時見殺しにしていれば、私はこんな苦しい思いをしなかったのではないかと、そんなことを思ってしまった。
彼らが存在している以上、私がユーリとフレンの母である以上、全く会わないという方が不自然だ。だからきっと近いうちに私の罪が白日の下に晒されるだろう。
もっと早くこの世界から逃げる選択肢もあったが、あの二人の成長を見ていると、あと少し、あともう少しと。結局逃げ出す機会を失った。

ぼんやりと天井を見つめていると、ユーリが階段を駆け上がってきた。すっかり精悍な顔立ちになり、細身ながらもしっかりとした体つきになった。今年でもう22歳なのだ。

「なんか水道魔導器が壊れたらしい。行って来るわ!」
「…いってらっしゃい。無茶はしないでね」

この世界は漫画やゲームの世界ではない。人は死ねば生き返らない。
漫画やゲームの世界がある一種の世界体系だとすれば、その世界のパラレルワールドが、例えば今いるこの世界なのである。

勿論その場合その世界は私の知っている「原作」とは違う歩みをする。例えば主従関係が逆転していたり、性別が変わっていたり、そんな事も有り得ないでもない。
実際、騎士団で出会ったのはダミュロンではなくシュヴァーンだったし、キャナリは隊長ではなくイエガーとも公認の仲だ。アレクセイも騎士団長でなかった。しかし、変わらないシナリオというものは存在するらしい。

だから私は不安なのだ。中途半端に「知っている」ことが私の選択を鈍らせる。私の存在が、私の行動が、助ける命もあれば、殺す命もあるのだということを、私は忘れてはいけない。人でなくなった私の影響力はとてつもなく大きいのだから。
それでも私の精神はただの一般人なのだ。平穏に平凡に普通に流されるように生きていたい。

「………だから、私は普通の平々凡々の女なんだって…」

と、私は言い訳のように呟いた。

原作とは違うと否定しても、人魔戦争は起こったし英雄シュヴァーン・オルトレインは生まれてしまった。私が介入して余計話がややこしくなることだって無いとは言えない。

私が悶々と考え事をしていると、くぅんと鳴きながらラピードがすり寄ってきた。

「……ラピード…」

心配そうに見ている。

「私は、大丈夫。ユーリをお願い。しっかりね」

そう言うと「わぅ」と短く吠え、ユーリの後を追って行った。
その背を見送って、ゆっくりとベッドから抜け出た。だからといって何をするわけでもなく、私はやっぱりぼんやりとしていた。


**


どうせ今日は街に出ても、てんやわんやで仕事にはならないだろう。かといって、このきな臭い情勢の中、外へ出て狩りというのも違う気がする。そんなこんなで大掃除をしてしまった。
テスト勉強が嫌で掃除を始めてしまう、そんな学生のころから数百数千年変わらない私の生態。我ながら呆れてしまう。
片付けていると、懐かしい物を見つけた。一時ハマっていた茶葉の缶だ。マリアへ譲り、アレクセイにも贈ったもの。彼女はマメな性格で、しっかりと飲んでくれたのか茶葉は残っていなかった。

「なんでこんな事に……」

なったんだろう。私があの時、「彼」と会話をしてしまったから?もっとずっと前から彼らと交流していれば或いは?それともこの世界に来なければ良かった?考えても仕方がないことだ。分かっていても「もしも」は尽きない。
これまでだって厳しい世界を生き抜いてきた。拾う命もあって、見捨てた命もあって。それでもこんなに儘ならないのは初めてだった。
思わず涙が出た。

「っ…」

零れないように上を向く。人らしい生活ができるように、人らしく設定してあるのが仇になった。泣いてしまったら、自分の感情に気づいてしまう。悲しいのだと、遣る瀬無いのだと、悔しいのだと。

「くぅん…」
「おかえり…」

いつの間に帰ってきたのだろう、そこには端正な顔立ちをしたラピードが心配そうに鼻を鳴らしていた。改めてじっくりその顔を見ると、男前だ。

「ごめん、なんか弱気になっちゃって。でもこれは私が自分で……」

すっと息を吸った。

「選んで進んできた道だから、ちゃんと自分で落とし前つけないと」

選んで、と言ってしまっても良いだろうかと。逡巡してしまった。でもここでそう言い切ってしまわないと、私は自分のここでの生活に自信を持てなくなってしまう。皆を不幸せにするためだけに存在するのだと考えたくはなかった。

「ワフッ」

ひと鳴きした。そうか、あまり時間がないのだ。ラピードは静かに頷いた。
小さな袋に先日仕事仲間に貰ったグミやらなんやらを手早く入れ、ラピードの首に掛けられるように紐で縛った。

「ラピード、ユーリのこと、頼んだよ」

そっとラピードの頭を撫でると、「まかせておけ」と言ってくれる。

「うん、アリガト。いってらっしゃい。気をつけてね」

彼は聡い子だ。彼が居れば大丈夫だろう。
彼の背を半日前同様見送るつもりだったが、くるりとこちらを向いた。

「?どうした?ラピー…いたっ」

鼻頭で脛をぺちこんと殴られた。

「え、どうした!?え?何?え?」

ふん、と首を振って、今度こそラピードは駆けていった。
彼なりの激励だったのだろうか。
彼の姿が見えなくなって空を見上げると、今日も変わらず魔導器が空を覆っていた。
これのせいで、私は大切なものをたくさん失ったのだ、そう思うと酷くこの魔導器が憎らしくなった。しかしいくら憎んでも虚しくなるだけだ。魔導器が奪ったのではなく、私が手放してしまったのだと心の奥底で分かっているから。

「ユーリは、前に進む」

言い聞かせるように口に出した。
あの子に強く言えなかったのは、私にも後ろ暗いことがあったからだ。フレンにもよく咎められていた。

「仕切り直しだ」

一応は無い頭で、それでも選択してきた。私の選択はいつもダメな方だったのかもしれない。だけど無責任に逃げたわけじゃない。そう信じたい。逃げてこんなに苦しんでたんじゃ、私が報われない。

ここから始まる。
今日というこの日が、始まり。

親として、人として、そして…


***


ユーリが旅に出かけて、暫く経った。仕切り直しと言ったが、いまだに家にいる。というか、ユーリがいなくなった分働けと言われて、家の修理やら雑用に駆り出されている。いや私他に自分の仕事もしてるから。魔物狩ったり、それでなんか作ったり売ったり。結構そもそも忙しい。長くお付き合いのある取引先に「あ、ちょっと用事あるんで休みまーす」なんて気軽に言えるはずがない。その分前倒しで働かねば…。

魔物を手早く解体しながら文句を垂れる。そんな日常の中にいても、じっとりと纏わりつくような嫌な気配が段々と近づいてきているのを感じていた。恐らく始祖の隷長も同様のものを感じているのだろう。だからこそフェローはエステルを殺そうとしたのだ。
この気配を感じ取れる者であれば、そう考えるのも納得がいく。無論それを実行に移すかどうかはまた別の問題ではあるが。

ひゅぅと嫌な風が吹いた。もう家に入ろう。まだ部屋の中にいる方がマシだ。幾分かは。
どの環境にも適応できる私のカラダは、この嫌な気配がある世界でも、なんら問題なく生活できるようになっている。ただ一度この異様さに気付いてしまえば、もう誤魔化すことはできない。
モヤモヤとしていて、ぐるぐるとしていて、常時身を危険にさらしているような不快感がある。私がこの世界に来てからずっとネガティブなのは、これのせいではないだろうか。元々余り楽天的なタイプではないが、ここまで考えが後ろ向きなのも、やはり珍しい。ような気がする。

「あー…」

周りの静けさに私は思わず声を上げた。
二人の息子が居た時は、あんなにも賑やかだったのに。いや敢えてそうしていたのかもしれない。10年前のあの時私は目に見えて憔悴していただろうし、少し吹っ切れてからも気を落とすことが多かったから。
気まぐれに淹れた紅茶を啜りながら、私は今更ながらに過ぎた時間を実感していた。
10年。それは私の生きてきた年月を考えると、取るに足りない時間だ。だけれども、ふとした時に人間だった頃の時間感覚が蘇ってくるのだ。ある意味では嬉しいことなのだが。

「暇だ…いや、暇ではないんだ…」

最近は息子が独り立ちをしてくれて、忙しいが忙(せわ)しなくない。空いた時間は無いがコンスタントな仕事内容なので、体が勝手に動いてしまう。

そんな日々を過ごしていると、ギルドと帝国が衝突したやら、大きな化け物が出たやら、ニュースには事欠かない。自分たちの生活で手いっぱいの下町の皆ですら、その話題で持ちきりだ。
そして執政官であるラゴウが行方不明だという話も。
その全てに息子が関わっているとか凄くないか。ゲームなら主人公補正だが。現実として捉えると余りにも疫病神過ぎる。
起こる事件が多すぎて大まかな話は記憶していても、細かなところまでは覚えていない。その話を聞いて、ようやく結局その道を行ってしまったか、と思った。

「マリア、君が生きていたら…」

もっと何か彼に与えられたのだろうか。これでも諸々の大切さは説いてきたつもりなのだ。どこで彼の中の正義が拗れてしまったのだろう。ジリのせいだけにするのは、…流石に彼女だって負担だろう。

「クローディア、」

誰かが私の偽名を呼んだ。

「デューク…久しぶり」

少し驚いた。彼がここに来るなんて、エルシフルの聖核を私に預けに来た時以来だ。彼は私を良く思っていない。いつも言葉の端々に刺々しさがある。
珍しいこともあったものだ。

「クローディア、いや……私はやはり人間というものを…世界を自然な形に戻そうと思っている」
「そっか…うん、そうなんだね…」

やっぱり、とは言わなかった。彼が違う選択をする可能性だってあったのだ。
彼の決意は固い。だがエルシフルとの約束なので、放っておくことも出来ない。あの日決別してから、彼との問答はほんの少し苦しい。どうしたものかと思案をめぐらせたが、今のところ良い案は出て来ない。

「私には止める権利は、きっとない、と思う…でもね、エルシフルはその選択を望んでないと思うのね…たぶん」

デュークは何かを言おうとして口を開いたが、結局何も言わずに私に背を向け去っていってしまった。エルシフルの望んだ「生きとし生けるもの、心あるものの安寧」をデュークは必死に成し遂げようとしている。人に恨まれても、人を亡ぼしてしまうのだとしても、それでも実行しようとしている。
本来エルシフルの願いには人の安寧も含まれていただろう。彼はそういう奴だった。
それをデュークもちゃんと分かっている。だから反論しなかった。私が言っていることは決して間違っていない。
それでも割り切れない彼の気持ちも分かる。

「儘ならないなぁ…」

わざわざ言いに来たということは、私にそれ以外のデュークの納得できるような選択肢を示せということだろう。ゲーム内でもユーリたちの行動を見守っていたような印象を受けた。もっと早く排除もできていただろうに。そういう所は甘いのだ。いや、優しいのだ。

私は部屋を見回した。
昔はここにいるのが好きだった。マリアがいて、ユーリがいて、幸せだった、幸せだった筈なのにいつからこの家を牢獄のようだと思い始めたのか。この家に囚われて、私は何がしたかったのだろう。
思い出が私を責め続ける。私はそれを苦しいと思いながら、どこかで安心していたのかもしれない。こんなにも私は苦しんでいる。だから誰も文句は言わないで、と。

デュークは選択した。
ユーリも前に進み始めた。

私も、ずっとここには居られない。
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