名前を言っちゃダメ




長いようで短かった夏休みが明日で終わる、そんな日もは学校にいた。宿題は夏休み前半に片づけてしまっているので、焦る必要はない。ただ、学校が始まるのだと思うと、鈍った体が億劫だと告げるのだ。

さん?こんにちは」

後ろから珍しい人に声を掛けられた。

「あ、小堀先輩こんにちは。そろそろ秋めいてきても良いはずなのに、暑いですね」
「そうだなぁ…体育館といい、部室といい…本当に嫌になるよ…」
「あー…ムサ苦しそうです」
「そうなんだよなぁ…」

小堀とは、あまり話さない。というより、バスケ部のメンバーと特別仲が良いわけではないのだ。ただ黄瀬がいるので、それなりに交流があるだけだ。

森山は例外だ。面倒見の良い彼は、単にが浮かないように積極的に話しかけてくれる。笠松に至っては、委員会が同じにもかかわらず、から話しかけなければ決して口を開かない。それどころか目も合わない。

「ゴミ捨て、ですか?」

小堀がやってきたのは、ゴミ収集所の方だった。それ以外には芸術関連の教室があるのみだ。練習着を着た彼が、しかも夏休みにそんなところに用があるはずもない。

「ああ、今大掃除してるんだ」
「そうなんですか?暑いのにお疲れ様です」
「そうだよ…しかもこれから練習だしな」

と、小堀は愚痴をこぼすには優しい声音で言った。顔は苦笑しては居ても、嫌だという雰囲気はない。

「部室に用だった?」
「はい、黄瀬くんに渡すはずだったものを忘れていて…」

これです、と手に持った小さな袋を持ち上げる。一度昼に黄瀬と会っていたが、そのときはすっかり忘れていたのだ。

「ついでに先ほど笠松先輩に言伝とプリントを渡されたので、それも渡しに。直接渡すように言われてます」
「じゃあ、一緒に…いや、ちょっと寄るところあるから、先行っててもいいよ」
「はい、じゃあ先に行きますね」

そう和やかに別れ、はそのままバスケ部の部室に向かった。これから部活だというので、いるかどうか不安だったが、部屋の中ががやがやとしているのが聞こえたので、はノックしようと手を挙げた。

『ギャー…!』

がドアをノックしようとしたとき、中からただ事ではない声が聞こえた。は逡巡したが、おずおずとドアを開けた。そこはまるで戦場だった。男どもが逃げまどっている。声変わりの終わった野太い声で少女のような悲鳴を上げている様はシュールだ。

「……はぁ?」

は思わず声を上げた。

「あ、!助け…ゴキ、いや、Gが!」

クラスメイトの浅川が駆け寄って来た。そしての後ろに回り込み、盾にした。
着替えの途中だったようで、浅川は上半身裸だった。上半身裸の男子に抱きつかれ、幾ばくかドキドキした。それを取り繕うように、は気を引き締めた。

浅川の指さした方を見ると、弱ったゴキブリがいた。

(弱ってるし…)

は溜息をつき、ある先輩が持っていた箒を奪い、ゴキブリに勢いよく振り落とした。

「ぎゃー」だの「うわー」などの叫び声が部室無いにこだました。

「ティッシュあります?」

の肩にしがみついていた浅川を引きはがし、傍にいた笠松に声をかける。笠松は憔悴した様子でを見ている。

「ティッシュ」

少しきつめに言うと、笠松ははっとして、傍にあったティッシュをに手渡した。視線を上げると、笠松の後ろには森山が顔を真っ青にして、笠松の肩をぎりぎりと握りしめていた。

「あの…森山先輩…肩は……まずいんじゃ…」
「え?あ、悪い…笠松…」
「いや、うん、まぁ、緊急事態だしな…」

森山はぱっと手を離し、申し訳なさそうに頭を垂れた。笠松も怒る気力がないのか、溜息を吐いただけだった。

「男がそろいも揃って、情けないですよ」

そう言って、はゴキブリを数枚のティッシュを重ねて、掴んだ。くるんでゴミ箱に放り込んだ。折角小堀がゴミ捨てをしたのにな、とは思った。

「あ、黄瀬くん、これ、渡すの忘れててさ、CDどうぞ……って、どうしたの?」

黄瀬はCDの入った袋を受け取った。その黄瀬はぶるぶると体を震わせていた。その様子を訝しんで、は黄瀬の顔を覗き込んだ。すると、ぱっと顔を上げ、黄瀬はの手を両手で包んだ。その手が汗でしっとりと湿っていて、は顔を顰めた。

「え?いや、俺、さんと結婚する!」

黄瀬は高らかに宣言した。はさらに眉を顰めた。

「えぇ?ゴキブリ見て固まってる男は論外だなぁ…」
「そんな…!」

黄瀬は大袈裟に驚いたように目をかっ開いた。そのとき、ドアが開いた。

「これは…どういう状況だ…?さんがいるのに、お前ら…パンツ一丁はダメだろ。笠松がいて、どうしてこうなったんだ?」
「す、すみません…!」
「悪ぃ…」

浅川は上半身裸、笠松に至っては、パンツだけを履いた状態だ。一番ドアの近くにいた浅川がぺこりと頭を下げ、笠松も申し訳なさそうに眉尻を下げて謝った。そのときに、黄瀬はすっとの手を離した。

「大丈夫?」

を気遣うように小堀はの顔を覗き込んだ。はぴんと背筋を伸ばし、大丈夫です!と言った。

「はい。寧ろ大丈夫じゃないのは、皆さんの方です。ゴキブリが出て……」
さんが倒してくったっす!」
「…………お前ら…」

早川の言葉に、皆がうんうんと頷いた。小堀は呆れ顔で溜息を吐いた。

「大丈夫ですよ。私ゴキより、どちらかというとムカデが苦手ですし…」

は、予想以上に皆に感謝されていることに気恥ずかしくなり、頭を掻いた。

「あー…そうだな…ゴキブリは毒とか持ってないもんな」
「はい。この前膝がそわそわすると思ったら、ムカデが這ってて驚愕しました…あの足の多いのがダメで…」
「分かるなぁ…じつは、俺クモもダメなんだ」
「私もです!あのカラフルな見た目が…一回蜘蛛の画像を見てて、透明な蜘蛛を見たとき、鳥肌が…」
「いや、蜘蛛こそ無害なんじゃないっスか?…飛ばないし…」

勇気を持って黄瀬が二人の会話に割ってはいるが、二人に揃って首を傾げられてしまった。

「うーん…フォルムが…」
「そうなんだ、あの足が多いのが…どうも…まぁ、ゴキブリって、食べるところもあるしな…」
「ありますね。大量に飼育してるのネットで見たことあります」

あははとが笑うと、反して黄瀬が声を上げた。

「うげぇ…」
「汚いよ…黄瀬くん…あ、でも、ゴキブリでも、アフリカにいるっていう…はねを広げた全長が20cmあるっていうのは、ちょっと…日本生まれで良かった…」

黄瀬はもうライフは0だと言わんばかりにすごすごと引いた。ぐすんと鼻を啜る黄瀬の頭を、森山と早川がよしよしと撫でた。笠松も、流石に可哀相なものを見るような目で黄瀬を見た。

「そうだよな…流石に俺もそれは無理かも…というか、ゴキジェットとか効くのかな…」
「一缶くらいなら…ほいほいの方は完全設計ミスですね」
「確かに」

くすくすと、小堀が笑う。もにこにこと微笑み返す。

「Gネタなのに、あの辺にお花飛んで見えるのは何でだろうな…」
「………確かに…」

森山と笠松はげんなりした様子で、二人を見守っていた。いや、見守るしかできなかった。

「俺気付いたんだけど、森山…」
「ん?」
「論外って言われてたぞ」
「…………それは言わない約束だぞ、笠松」


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