運が悪いのか、はたまた物凄く良いのか。
は立ち尽くした。が、そういえばトイレに来たのだったと、そそくさと女子トイレに入った。
ゆっくり用を足せば良いのだが、外が気になる。

結局いつもの倍のスピードでトイレから出た。
腹巻やらヒートテック上下やらコートやら煩わしいものを素早くよけて便座に座り、そしてそれをすべて元の位置に戻す面倒くさい作業をこなし、しっかりと手も洗った。
トイレから出れば、この状態が解消されていないだろうかと、淡い期待をしていた。その幻想も崩れ去り、は再び悩んだ。そして意を決して話しかけた。

「あの〜大丈夫でしょうか?」

返事は無い。屍のようだ。と言っている場合ではなく、深刻な状況かもしれない。はしゃがみ込み、肩を叩く。冬休みに入る前に行われた保健の授業を必死に思い出す。
口に手をかざすと、息はある。脈を確かめようかと手を伸ばすが、直接肌に触るのは怖かった。息があるのだから、心臓も動いているだろう。頭を揺らさないように、何度か肩を叩く。

「もしもーし、大丈夫ですか?…えっと、灰、灰…色さん?」

名前が思い出せないでいた。灰原さん、灰山さん、灰崎さん、灰沢さん、…とふわふわとした印象で、どれだったかが明確でない。呼びかけておいて、違ったら恥ずかしい。辛うじて覚えていた色名で呼ぶことを選んだ。そこだけは、ああ、色だなぁと思ったので、覚えていたのだ。

「灰色さーん」

それなりに大声で呼びかけるが、全く返事は無い。身じろぎもしない。どんどん不安になっていく。最初は気付かなかい程度だったが、頬が腫れてきている。本当にまずいところに出くわしたようだと、ようやくは、はっきりと危機感を持った。
大方の観客は去ってしまっている。助けを求められる人はいない。
試合が終わり、桃井と少し話をして、そうしてやっとは両親に迎えを頼む連絡をした。
会場は早々に明日の準備のためか、閉められた。寒い中、外で談笑というのもおかしい。あっという間に辺りの人気はなくなってしまった。不安が押し寄せる。

「あの、大丈夫ですか」

桃井や青峰、黒子の様子から、そして試合の様子から彼が良い人物でないようなのは、も知っている。しかしだからと言って、恐らくは殴られて倒れているのだろう人を放っておく理由にはならない。彼が明日ニュースになっていたら彼女にとっては寝覚めの悪いことだ。
これが試合会場でなく道路だったら、迷わずに119番をしただろう。怖そうな知らない人だったらその場から離れてから電話をしたはずだ。
しかし選手の一人が暴力沙汰なんて、この大会自体の開催が危ぶまれる状況で、はどうしたらよいのか分からずにいた。
自分では抱えられない状況だ。スマホを取り出した。
黄瀬に連絡をしようかと連絡先を滑らす。しかしそれよりも先に笠松の連絡先を見て、こっちだなとタップした。黄瀬は直接の因縁のある相手だ、それに彼が冷静に対処できるとは、は思わなかった。黄瀬は人懐っこい性格だが、根底はそれほど優しい性格ではない。特にその他大勢や、一度敵とみなした相手には手厳しいのだ。

何コールかなった後、繋がった。自分から掛けておいて、緊張で心臓が早打ちしだした。

「あ、あの、お疲れ、さまですです」

笠松は狼狽えた。予想外の相手からの電話。
名前を見ずに出るなとはよく言われるが、癖はなかなか治らない。

「すみません忙しいところ、……い、ま大丈夫でしょうか」
「ああ、大丈夫だ。まだ荷物の積み込みしてるところだから、少し時間がある」
「そ、うなんですね、あの、えっと、その、大変なことに、いや私が大変なわけでは、あのえっと」
「落ち着いてくれ」
「す、みません」

が息を整えている間に、笠松はバスから降りる。監督に声をかけると、あまり離れるなよと言われた。
「すみません、ちゃんと話します」と電話越しに声が掛かり、笠松は「ゆっくりでいいぞ」と言った。

「えっと、あの、人倒れてて、意識なくて、どうしたら良いか分からんくて、警察?とか呼んだ方が良いかも、しれないですけど、でも、その人多分殴られてて、それから、さっきうちと対戦してた選手で、事を大きくしたらだめかと思って…」

しどろもどろになりながら、説明をする。笠松も出来る限り優しい声で相打ちをする。

「助けてください」

と、はっきりと言われ、笠松は悩んだ。監督に説明をするか、少し席を外すか。しかし時間があるといっても、行って帰ってくるだけの余裕は無いだろう。

「分かった。そこにいてくれ」

そう笠松が言ったので、は力なく「はい」と答えた。



***



はため息をついた。笠松の声を聞いて少し気持ちが落ち着いた。これで自分ひとりの責任ではなくなったと安堵したというのもある。自分もあと二年すればああいう頼られる人間になるのかと考えた。きっと無理だ。

「灰色さーん…起きてよぉ…」

と言うと、「うぅ、」とうめき声が漏れた。これ幸いと、は呼びかけた。

「灰色さん!」
「灰色じゃねぇ灰崎だ…ぅ」
「灰ざきさん!ダメです!頭打ってるかもしれんですし、動いちゃだめです。動くにしてもゆっくり動いてください」
「…だれ…」

には不良に対する耐性があった。
実は彼女の通う中学校は不良校だったのだ。不良校と言っても、物がよく壊れる程度の、授業のエスケープが多く教師が皆トランシーバーを持っており、同級生がパトカーに追いかけられる、たばこが没収されるというような軽いものだ。抗争や性暴力事件とかがあるような本格的なところではない。
それでも強面の男にはほんの少し他の人より慣れていた。
案外悪ぶっている奴の方が話しやすかったりすることもないこともないことを、は知っている。少なくとも普通の学校に通っている不良は、こういう場面で殴ったり乱暴はしないだろう。

「えっと、私はバスケ見に来てた者で、偶然トイレに行こうと思ったら、倒れていらしたので、………大丈夫ですか?」
「そうか」

まだぼんやりしているようだ。だが、ちゃんと意識はあるし、返事もする。はほっとした。建物内とはいえ、冬の時期に汗をかいてこんなところで倒れていれば、命の危険もある。

「学校の人、に連絡した方が良いでしょうかね…」
「別に…」
「あ、そうだ」

と言って、はトイレに入って行った。そしてすぐに出てきた。

「これ、未使用タオルなんで」

タオルを濡らして、灰崎に差し出した。彼は訝し気な顔をして、首を傾げた。
は自分の頬を指さして、トントンと叩いた。

「気休めにしかならんとは思いますが、無いよりはあった方がよいかと…えっと、あ、飲み物…そこに自販機あったので何か買ってきます」
「おい…ちょ…」

灰崎は止めようとしたが、はそのまま走って行った。じっとしていると、不安を感じるのだ。速く来てくれと祈る。


「ううん…」

スポーツ飲料を買うつもりでやってきたが、自販機の「あたたかい」を見て、体が冷えているので暖かい飲み物の方が良いだろうかと悩んだ。全くの他人に奢るのに、二つ買うのは自分の中で納得できない。

「…同時に押して出た方持っていくか…」


お茶を持って戻ると、灰崎は壁にもたれて座っていた。ちゃんと頬を冷やしている。話せばわかるタイプの不良で良かったと、本日何回目かの安堵だ。
スマホを見ると、渋滞していて遅くなりそうと連絡があったので、そちらにも安心する。

「なんでそこまですんだ」
「え?いや、うーん…さっきまで試合してた人が、倒れてたら心配になりますよ。それに一応浅からぬ縁?みたいな感じです?」

そこまで話したところで、バタバタと足音が聞こえた。

「わるい、遅くなったな」
「先輩!良かった、一人で心細かったんです。あ、意識は戻りました」

が笠松に近づこうとすると、彼の体がカチンと固まった。しまった女性が苦手なんだった、と彼女は前のめりになった体を元に戻した。

「…お前海常かよ」
「え?はい。そうですね」
「お仲間がやったと思ったのか。それで媚売っとこうってか?」
「んぇ?」

は固まった。そして今思い至ったという顔をした。
端から海常の選手が、二軍に至るまでそういう類のことをする可能性がないと、排除していたのだ。思い至らなかったことを恥じて、は顔を赤くした。

「お前みたいに悪いことしてない奴は、こんなもんだよ」

笠松の言葉に灰崎は舌打ちをした。

「すみません、そういうつもりは全く無かったのですよ!」
「下衆の勘繰りで悪かったな」
「ああいえ、すみません。私頭良くないんで」

ばつが悪そうに灰崎は俯く。そうすると、立っているからはもう表情が分からない。変な誤解をされずに済んで、事態は丸く収まりそうだ。

「こいつの学校にも連絡してあるから、ここは俺が残る。悪かったな」
「う?あ、はい、すみません。じゃああとお任せします」

タイトなスケジュールの笠松に任せるのは気が引けたが、が居ても何ができるというわけでもない。出しゃばらない方が良いだろうと、了承した。

「あの、…来てくださって有難うございます。ほっとしました」
「おう…」
「あんたら付き合ってんのか?」
「は!?」

声を上げたのは笠松だ。そういうんじゃないとか、に失礼だとか、しどろもどろになりながら灰崎の誤解を解こうとしている。
はきょろきょろと二人を交互に見た。灰崎は調子を取り戻したのか、にやにやとしている。じっと灰崎を見つめると、視線が合った。笠松の声もぴたりと止まる。

「元気そうでよかったです」

と言うと、灰崎は眉をひそめた。

「声をかけても返事をしてもらえない時はどうしようかと…でも、これなら大丈夫そうですね」

よかった、よかった、と頷いた。

「あ、でも暫くは安静ですよ。それと、笠松先輩は女性に対しては大抵こういう感じです。それではこれで失礼します」はぺこりとお辞儀をして、その場を後にした。




その後、灰崎が犯人は見ていないし犯人捜しも必要ないと言ったので、この件はそれで終いになった。も黄瀬からその話を聞き、ほっと胸をなでおろしたのだった。

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