「今日からよろしくお願いします」
壇上を降りる。足は震えていなかっただろうか、そんなことを思い、はがくりと肩を落とした。
全校生徒785名、ずらっと並んだ生徒達、壇上の上から見たその光景は圧巻だ。
(緊張した
…)
と、は心の中で脱力した。
教師達への挨拶もすませ、は一目散に高橋が城と称した部屋に駈けていった。ばたん、とドアを後ろ手で閉め、ドアに身を預けてずるずると沈み込んだ。
人の中で生きる以上、避けては通れぬ。だが、は人に交じり、人として生きる選択を常にしてきた。
は、人に依存してしか生きられない。
少し格好良く言ってみればそういうことだった。
だが、は自分を「寄生虫だ」などと卑下したりしない。人が人である以上、一人では生きられない。つまりが寄生虫であるというのなら、人類は余すとこなく寄生虫だ。人=寄生虫、それが普通であるのなら、卑下する言葉にはなり得ない。は、人だ。人ではないがゆえに人だ。
「偽物は本物でいようとする意志がある。そうであるがゆえに本物よりも本物だ」
とは、どの世界の住民が言ったことか。
「失礼します」
がらがらとドアが開かれる。体重を預けていた壁が一瞬にしてなくなり、は後ろに倒れ込んだ。ドアを開けた男はすっと身を引いた。一瞬のことだったのに、大した運動神経だ。
が顔を上げると、怪訝な顔をした少年がを見下ろしていた。森山だ。彼はお世辞にも目つきが良いとは言えない。は苦笑いをするしかなく、あははと笑って見せた。森山はさらに困惑したように、立ちつくした。
「体調が悪いので、ベッドを借りても良いですか?」
と言った。確かに顔色が悪そうに見える。しかしどうだろうか。は見ただけでその人の体調が分かる。の前では人は皆丸裸だ。体温からその人の身長体重、筋肉量、今日食べたご飯、本人すら知り得ない持病等々、それらがには見えた。
「そう、は見えないけど…」
そう言うと、森山はほんの少し目を見開いた。は立ち上がって、森山の顔をじっと見つめた。森山はあまりの顔の近さに、一歩下がった。吐息が掛かるほど、近づけられた顔。快調というわけではないだろうが、授業をサボってまで保健室で休む必要があるかというと、そうでもない。それがが下した判断だ。
「はぁ…」
森山は溜息を吐いた。
「結構、自信あったんだけど…」
「それは残念だったね」
があっけらかんと言うと、森山は再び溜息を吐いて踵を返した。すぐには森山は呼び止めた。
「何処行くの?」
「は?教室だけど」
森山はさらに怪訝な顔でを睨んだ。はそれに物怖じすることなく、首を傾げて言った。
「どうして?」
「どうしてって…」
「だって、ベッドで寝に来たんでしょ」
何を言っているのだ、はそう思った。引き留める理由など他にない。
「アンタが、仮病だって言ったんだろ」
「でも、貸さないとは言ってないよ。君が何の理由もなく、ここへ来たのなら、私は君を授業に戻すべきなのだろうけど…」
そうが言うと、森山は少し考えてから、の横を通り過ぎ、ベッドが並ぶカーテンで隔てられた空間に入っていった。勢いよく閉められたカーテンは、ちょっとした反抗のつもりだろう。
は、ブックエンドで立てられた記録ノートを引き出した。
「学年、クラス番号名前、」
そう尋ねると、カーテンの向こうから、ふて腐れた声が聞こえた。
「3年3組、28番森山由孝」
はさらさらとボールペンで書き込み、それを元の場所に仕舞った。さて、とは椅子から立ち上がり、学年別の書類が入ったファイルを本棚から引き出した。
(全員の健康診断の把握、とあとは、統計出して、まとめて、んで、…)
はもんもんと仕事内容を整理し始めた。前の養護教諭は、
「でき婚しちゃって、突然ですが、辞めます」
などと、学校の先生がそんな無責任な辞め方をして良いものかと頭を抱えたくなるような状況で退職し、引き継ぎは適当に行われてしまった。そのため、は今この学校の状況を一人で把握しなければならない状態なのだ。それが、上原が言った「ああいう辞め方」だ。
(でき婚て、でき婚って!)
もできちゃった結婚全てが悪いと思っているわけではない。それでもしっかりと子供を育てられるなら、どんどん子供を産めばいいとすら思っている。この少子高齢化の時代にご苦労なことである。一人と言わず、二人でも三人でも大歓迎だ。
それにしても教諭という立場、ましてや心身の健康衛生を守るべき養護教諭がすべき行動ではない。
は、前任の教諭に心の中で何度目になるか分からない文句をつらつらと述べながら、ぱさぱさと、唯一この学校の状況が分かる書類のページを捲っていく。健康診断書を見終われば、次はここ数年の感染症の広がり等々の把握、そしてそこから生徒に対する指導内容を練らなければならない。
いくら、昔なじみの先生の頼みでも引き受けるんじゃなかった、とは後悔した。しかし後悔は先には立たない。唯一の救いが、改装工事をしただけあって、環境整備はなされているという点だ。
(これで、学校もボロボロだったら、……私の仕事が増える…)
そのとき、突然じゃっと、音を立ててカーテンが開かれた。
「わ、びっくりした…どうかした?煩かった?」
「…………逆だよ。あんた、なんでそんなに静かなの?」
気怠げな森山の様子からすると、眠りに入るかは入らないかの瀬戸際をうろついていたようだ。
「静か、良いじゃんか」
「………俺、誰かいないと寝れないんだよ」
森山はばつが悪そうに俯いて、ぼそぼそと言った。実際は、「寝られない」という表現は間違っていた。人がいないと眠りに入れない、というのが正しい表現だった。なぜなら、眠りに入ってしまうと、今度は人の気配があると熟睡できないからだ。
森山はそこまで説明する気はなかった。一度そのことを付き合っていた彼女に言ったことがある。「我が儘だし面倒くさい」と一蹴されてしまったのだ。それからは、一度もそのことを人に言ったことはない。
は立ち上がり、森山の寝るベッドの隣のベッドに腰掛けた。
「私は人がいると寝られないけどね。というか、光とかもだめ」
「光…?」
「そう。睡眠って言うのは、長時間取ればいいってもんじゃない。『質』だ。レム睡眠とノンレム睡眠が正しい周期でやってくる必要がある。眠りっていうのは、結構繊細なものなんだよ」
森山はの言葉をじっと聞いていた。
「それにね、君も人がいないと眠れないと思ってるかも知れないけど、本当は、人がいることによって、正しい睡眠を取れていない可能性があるんだよ」
は森山に優しくそう言った。話をしながら、は森山の脳に信号を送り続けた。睡眠に入りやすい環境を整えてやる。にしかできない芸当だ。
森山は、ぼんやりとした表情でを見た。
「保険医っぽい…」
「保険医だしね。正しくは養護教諭」
にっこりとそう指摘すると、森山は怪訝な顔をした。
「あんたさ、敬語、とか注意しないの?」
「私は構わないけどね」
はそう言って、組んだ足をぶらぶらと揺らした。体重を腕に掛けて体を反らせ、天井を見上げる。白い世界に囲まれた空間に、はそわそわとした。目を閉じた。
「俺、普段はちゃんと使ってるよ。けど、あんたには、なんか使うの変、って思う」
「そう」
はそっと目を開けて、呟くように答えた。森山がこくりこくりと船をこぐ。森山の体を支え、ベッドに横たえる。抵抗はない。
「なんだろ、あんたとは、………まえ、に、も…どっかではなした……………きがする…」
そう言いながら、森山はすぅっと眠りに落ちていった。
(話した気?)
の記憶は、人のそれとは違う。どちらかといえば、パソコンのデータのようなものだ。検索すれば、引っかからないものはない。そしてパソコンと違うところは、データを捨てられないところだ。だから、の記憶に無ければ、その思い出は「嘘」「勘違い」と言うことになる。だが、は一つの可能性を思い浮かべた。
(いや、どちらにせよ、彼は別の人間だ)
はそっと、眠る少年の髪を梳いた。
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