「ん…」
森山は、緩やかに覚醒していくのを感じた。保健室の角、カーテンで仕切られたそこは、ほんのり薄暗かった。わーわーと生徒の声が聞こえる。
森山はがばっと体を起こした。10分休みとは違う喧噪。森山は今の現状を正確に理解した。急いで身なりを整え、カーテンを開けた。勢いを付けすぎて、つんのめるのを、カーテンを掴んで堪えた。
「な!んで起こさないんだよ!!」
「あ、おはよう」
は長閑に応えた。森山はぐっと血圧が上がるのを感じた。
「おはよう、じゃないだろ!今何時!?」
「昼休み、だね」
森山は目を手で覆って脱力した。3時間以上眠っていたことになる。
「寝不足」
「は?」
きっぱりと告げられた言葉が、一瞬飲み込めなかった。森山は目を覆っていた手を離して、を見た。
「だから、寝不足。この時間に寝ちゃったら、夜余計眠れなくなるかも知れないけど、夜は寝られないんだろ?」
「まぁ、…」
気まずげに視線を逸らし、バツが悪そうに唇を突き出した。
「なら、今寝た方が良いかなって思って。担任には言っておいたから」
「午後は出る…」
ぽつりと、森山は呟くように言った。
「そう、気を付けてね。あと、これ」
「何これ…」
に差し出された冊子を受け取り、森山は中身をペラペラと捲った。
「良質な睡眠のためのマニュアル。実行してみて。まとめといたから」
「……暇なの?」
森山は冊子をぱさぱさと振りながら、胡散臭いものを見るようにを見た。
「まさか、保険医って、割と忙しいんだよ?君が寝てる間にも何人も相談に来たんだから。まぁ、今日は初めての先生に珍しがってるだけだろうけど」
「へ、…………ぇ…」
森山は曖昧に答えた。
「これ、………ありがと」
「どういたしまして」
森山の小さな感謝の言葉に、はにっこりと笑った。保健室のドアをゆっくりと閉めながら、森山はを伺い見た。相変わらずの笑みで手を振っていた。
(俺、人の気配には敏感な方なんだけどな…)
今日初めて会った人の隣で爆睡してしまったことに、森山はもやもやと釈然としない気持ちになった。
**
その日からほぼ毎日、森山は保健室を訪ねた。ご飯を食べて、保健室で仮眠を取り、そして授業に行く。それがここ最近の森山の日課だった。
がやってきたのは、夏休みが明けた9月1日のことだった。部活動をしていた3年生は、受験モードに入っている。それは森山も例外ではない。
「ちゃんとした時間に寝ないと、良くないよ」
「寝れてないわけじゃないんだから良いじゃんか」
「まぁ…」
「寝ても寝足りないの」
あっさりと森山は言った。
「それ………」
「ん?」
「やっぱ病院行った方が良いと思うけど…」
「なんで。ここに来れば眠れるんだから、別に良いじゃんか」
君はずっと私といるつもりなのか
そう尋ねそうになった。それをぐっと堪えて、は森山に向き直った。中学生は多感な時期であり、繊細で傷つきやすい。そして、「今」を永遠だと思う節がある。それを否定することは、彼の心を傷つけることになるかも知れない。そう思い、は優しく微笑みかけた。
「相談なら、いつでもどうぞ」
**
「って言ったのに…」
森山は項垂れた。勉強勉強勉強、疲れが出ているのが自分でも分かった。自習室で、一人黙々と受験勉強に打ち込む。悩みはあった。受験のこと、自分のこと。今まで森山は相談を受けることばかりだった。そのため、自分のことや周りが見えているという自負があった。だが、どうしようもなく気分が落ち込むことが、最近よくある。
情緒不安定、簡単に言うとそういう状態だった。その状態こそが、森山の自尊心を傷つけた。
森山は相変わらず夜に熟睡できずにいた。酷いときは何度も覚醒する。夏休みを終えてからというもの、ずっとそんな状態が続いていた。が学校に来てからは、保健室で幾分か睡眠を取れていた。しかし今、は学校には居ない。
森山の中学は、2年の秋に修学旅行がある。その引率だ。現在、臨時の教諭がの代わりに常駐している。森山は日中のあまりの眠気に、心底疲れていた。
『森山さん、って、けっこうナイーブなんですね』
「っ…!」
森山はキョロキョロと周りを見た。隣の生徒が怪訝な顔で森山を見たので、静かに前を向いた。
(なんだ、今の…?)
時計を見ると、思った時間より3分ほど時計が進んでいる。少し意識が飛んだらしい。気を取り直して課題に向き合ったが、集中できない。夢にしては妙にリアルで、しかも
の声で、確かに「森山さん」と呼ばれたのだ。
かちかちと時計の音がやけに耳に付く。集中が切れては何も出来ない。森山はさっさと帰って寝ようと思い、荷物を片づけて学校を後にした。
自転車通学が認められている区域ではない森山は、電車通学だった。電車に揺られながら、森山は先ほど見た夢を思い出そうとした。しかし、どうにも思い出せない。もやもやとした気持ちを抱えながら、森山は電車を降り、改札をくぐった。
かちりと信号が青に変わるのを確かめ、森山は迷わず足を踏み出した。
「おい!」
「え?」
突然がしっと、腕を掴まれた。その瞬間、目の前をダンプが凄い勢いで森山の目の前を通り過ぎた。
「何やってんだ!赤信号だぞ!」
少年が厳しい声で叫んだ。森山は視線を少し上げた。歩行者用の信号は赤だ。
「ぁ…悪い…寝ぼけてた…」
「ったく…気を付けろよ」
森山と同じくらいの身長の少年。童顔だが、眉がきりりと凛々しく気が強そうだ。酷く安心感のある男だった。
「おい、大丈夫か?」
「あ、ああ…大丈夫…」
森山はしっかりと覚醒しない頭で、適当に相槌を打った。少年は訝しげな顔で森山を見ていたが、やがて同じ制服を着た少年に呼ばれて、さっさと行ってしまった。
「何やってんだよ、笠松」
「悪ぃ、なんか、放っておけなくて」
「お前いつもそれだよな」
そんな会話が聞こえた。森山はその様子をぼんやりと眺めていた。
(………あれに轢かれてたら、死んだのかな、俺…)
森山の中にそんな思いがぽつりと生まれた。急に足場が崩れていくような気がした。周りの物全てが急に無意味で冷えたものに見えた。
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