優先順位
黄瀬は朝練があるので、毎朝早くに学校に来ている。だが、その日は諸々の理由で朝練がなかった。
しかし、習慣というのは恐いもので、黄瀬はいつものように朝早くに目が覚めた。やることも無い。そして、はっきりと覚めてしまった意識では、二度寝もできない。
黄瀬は仕方なく、いつものように家を出た。
学校に着いたのはHRの時間より一時間も前のことだ。
「うわっ…」
「え?」
黄瀬が教室のドアを開けると声が上がった。まさかこんなに朝早くに人がいるとは思っておらず、黄瀬も顔には出さないまでも、驚いた。すぐに驚きを収めて、黄瀬は自分の席に向かった。
「…さん、早いっスね」
「うん、道が混むから、早めに出てる」
「へぇ…」
は扇子で扇ぎながらそう言った。黄瀬は電車通学だが、は自転車通学だ。毎朝汗だくで来ている。が暑いのはだめなのだと言っていたのを、黄瀬は思い出していた。
黄瀬は自分の席に座った。の後ろだ。
は髪が鬱陶しいと言って、髪を上げている。黄瀬からはのうなじが見えた。
タオルで汗を拭きながら、はくるりと後ろの席にいる黄瀬の方に体を向けた。
「あのさ、汚い話して良い?」
はそう切り出した。黄瀬はが下ネタが好きなことを知っていた。黄瀬はすぐにその類の話だと直感し、顔を歪めた。
「爽やかな朝を台無しにしたくないっス。丁重にお断りします」
しっかりとした文脈で、黄瀬はぺこりとお辞儀をして断った。は、言いたくて仕方ないという風にそわそわしていた。
相変わらず汗を拭きながら、は黄瀬を見た。
「女の人って、体の構造的に、おしっことうんこが同時にできるわけ」
「勝手に話し出すし。やっぱり汚いし。ていうか、ブラが見えてる子ははしたなくて、うんこおしっこは、はしたなくないんスか」
黄瀬は、げんなりした。黄瀬に対して、そういった話をする人間は居なかった。だから、免疫が無いのだ。それも、同じ年の女にされるのだから堪ったものではない。
だが、は黄瀬が本気で嫌がるなら、そういった話を控えようと思っていた。それでもがその話を強行するのは、なんだかんだ言って話が弾むからである。
「排尿排便は人なら当たり前の営みですー。それをはしたないなんて、黄瀬君の頭はいやらしいなー。今日は黄瀬君のことを『いやらしい黄瀬君』って呼ぶことにするね」
「なんで!」
黄瀬は声を上げた。だが、怒っているのではないと、には声のトーンで分かっていた。戯れの一種だ。そのまま話を進める。
「でさ、女の人は同時にできるけど、男の人は同時にできないでしょ?」
「まぁ…でも同時にしたいと思ったことがそもそもないし…」
「え!?嘘!?」
黄瀬は、結局の質問や言葉をしっかりと聞き、相槌を打つ。
「これ、高校生の男女がする話じゃないっスよ…」
黄瀬は呆れ顔で言う。はむしろそういった反応を面白がっていた。潔癖とまでは言わないが、繊細な黄瀬の性格を知ってのことだ。はにやにやしながら、猥談に花を咲かせた。
「もし、もし同時に来たらどうすんの!?」
「さぁ………どっちか我慢するんじゃない?」
黄瀬は適当に答える。どうと言われても、経験が無いので、分からなかったのだ。
「黄瀬君は同時に来たらどっち優先する?」
の質問に黄瀬が固まった。
「聞いてどうするんスか!?」
あからさまに狼狽する黄瀬に、はにやにやとした顔で迫った。
「別にどうもしないけど。純粋な興味!」
「そんなことに興味持つな!」
「で、どっち」
黄瀬は黙り込んだ。ちらちらと視線を彷徨わせ、時々と視線が合っては、あからさまに逸らした。そして、意を決した様に、黄瀬は口を開いた。
まごまごと口を動かすが、声にはそらない。は根気よく待った。すると、小さな声で返事が聞こえた。
「…………………………………………………………………………………おしっこ…」
黄瀬は、気まずげに唇を突き出して言った。それを見ては満足した。
「まぁ、そうだよね。うんうん」
「なんか、大事な何かを失くした気がするっス。っていうかマジで羞恥プレイっスよ!」
黄瀬は大きな手で自分の顔を隠した。は、それを楽しげに見ていた。こうやって反応してくれると話している方としては、とても楽しい。
「自分繊細やねぇー」
「あんたが大雑把なんスよ!」
にやにやとは黄瀬に突っかかる。黄瀬は机に突っ伏して、文句をたれた。そして、黄瀬は羞恥を紛らわせようと「あー」だの「うー」だの唸った。
は黄瀬の頭をくしゃくしゃと撫でる。黄瀬は大人しく撫でられている。は猫を撫でている様な気分になった。
の髪も見た目はサラサラに見える。が、黄瀬の物よりも硬い。手で梳いていると、たまに指に毛が刺さるほどだ。
羨ましいとは思わない。ただ、純粋には黄瀬の髪は綺麗だと思っていた。
「尿と言えば、尿検査ってあるでしょ?」
突然はそう切り出した。
「まだ続くのか、この会話…」
黄瀬はげんなりした様子で、顔を上げた。上目遣いにを見る。朝のまどろみの顔だ。こういうのを見せられたら、女子は騒ぐのだろうと、他人事のように思った。
「黄瀬君の尿って盗まれたりせんの?」
「…………………………………誰に盗まれるんスか…」
黄瀬は愕然とした。再び机に突っ伏した。ごんと、机に額が当たった音がした。梓は頭がこれ以上バカになったらどうするつもりだろうと、心配になった。
黄瀬は机の上に組んだ腕に顎を乗せて、を上目遣いに見た。
は黄瀬の額を手でさすりながら、彼の質問に答える。
「いや、なんか黄瀬君のファンで熱烈な人とか」
「そもそも盗んでどうするんスか!」
「いや、私は盗んでないから知らないけど…」
が想像で言った言葉に黄瀬は勢いよく顔を上げた。黄瀬は戸惑う様に顔を顰めた。は黄瀬の質問に頭を懸命にひねらなければならなかった。自身はそういった性癖はない。単なる好奇心の類だ。
「でも、世の中には、人が排尿する姿に興奮する人とか、いるらしいし…」
「…………見るのと持って帰るのとは違うんじゃ…」
黄瀬は呆れ顔をした。はよしよし落ち着きなさい、と頭を撫でた。
「黄瀬君は体操着とか、タオルとか、水筒とか、盗まれたりせん?」
「………………あるけど…」
黄瀬はぼそりと言った。段々核心に迫ってきた。は黄瀬の頭を撫でながら、どんどん話を進める。
「ほら!黄瀬君の唾液とか、汗とかに興奮する人がいるんなら、尿に興奮する人もいるかもしれない!」
「想像したくない…っていうか、盗まれたものの行く末が、今もの凄く気になるっス…!」
熱弁するの言葉に、黄瀬は頭を抱えた。蝶よ花よと愛されるのは良いが、そうやって不特定多数の人に性の対象と見られることには少なからず抵抗があった。
「……………っていうか、さんは、そういうの興味あるの?」
は黄瀬の頭を撫でる手を止めた。心外だ、とはぽすぽすと黄瀬の頭をやんわりと叩いた。
「尿?汗ですら、ちょっと…唾液も…私、人の匂い駄目だし…絶対無理…お金出されても断るわ…」
「意外と繊細っスね…魚の内臓は大丈夫なのに」
「魚の内臓は食えるものもあるけど、汗も唾液も尿も飲めって言われて飲めないでしょ」
「いや、はぁ…極端な例っスけど…」
そういうものか、と黄瀬は納得できないでいたが、大人しく頷いた。
「本当に匂いは駄目!更衣室とか長いこと居られないし…臭くて…汗もそうだけど、制汗スプレーの匂いのあり得ないコラボとか…」
「コラボ?」
「柑橘系+石けん、とか、混ぜるな危険!あと、雨の日の下駄箱とか、おえってなる……!」
「じゃあ、バスケ部の更衣室とか無理そうっスね」
にやりと黄瀬が笑った。やはり男子の更衣室は臭いんだ、とは納得した。
「……………そもそも、男の子臭い…いや、男の子自身が悪いんじゃない、そういうお年頃なんだよ、加齢臭と一緒なんだって、あれは。そういう感じのにおいがする時ってあって、あーーーーーもう、ホント…」
黄瀬は固まった。そして、の手が頭に乗っていることを忘れて上体を起こし、自分の腕をくんくんと嗅いだ。それから、おずおずとに尋ねた。
「…………俺、臭くないっスよね?」
「臭かったら言ってるよ。でも黄瀬君は良い匂いの時とそうでないときとあるよね。いや、臭いとかじゃなくて。撮影の後なのかな、香水臭いし…それはちょっと気になるけど」
うーん、と思い出しながらがそう言うと、黄瀬は身を乗り出した。
「え、香水、臭いっスか?みんな結構良い匂いって言ってくれるんスけど…」
「あー…私人工的な匂い全般がだめで…柑橘系は…多分大丈夫…」
はまずいことを言ってしまったと後悔した。モデルという職業上、香水を付けることは日常的。そして、少なくとも自分は気に入って着けているものを微妙と言われれば黄瀬も気を悪くするのではないかと、梓は必死に弁明した。
「そうなの?」
「うん……あ、でも私がそういうの苦手なだけだから、女の子は好きなんじゃないかなぁ…」
は黄瀬の取り巻きと自分が同じ女だとは思えなかった。凄まじいセックスアピール、いかに黄瀬に気に入ってもらえるか、記憶に残してもらえるかを必死に考えている女子達。
その光景を見て、は自分は女よりも男寄りの人間かも知れないとさえ思っていた。
「さんは良い匂いするよね。最近は甘い匂いする」
黄瀬はにっこりと笑った。は、こういうとき、黄瀬は出来た人間だと実感した。柔軟に人の意見を聞き入れる姿勢には好感を持っている。
「柔軟剤の匂いだと思う。今は………ラベンダー?かな…」
「へぇ」
端から見たら、恋人同士に見える会話に本人達は気づいていない。お互いに全くそういった考えがないからだ。
「っていうか、急にあんな話したの?」
「んー?いや、両親と昨日そんな話になったから。男の人って、トイレ大変だなぁって、思っただけ」
「アンタね…」
「ん?」
黄瀬は先日、も女なのだと自覚した。だが、今、黄瀬はそんな自分を過去に戻って叱ってやりたいと思っていた。はやはり、女というよりも、はという人種なのだと、黄瀬は実感した。
**
「何か用ですか?黄瀬君ですか?」
「ああ…」
笠松が教室に来た。トイレに行っていたは笠松の隣を通り、用向きを聞いた。は、大きな声を出すのが面倒で、黄瀬の近くまで行き、笠松が来ていることを知らせた。
「いやら…黄瀬君、先輩呼んでるよ」
「今、いやらしいって言おうとした…」
「関西人は面白いネタは絶対に忘れないからね」
「…………やっぱりさんは、さんっていう人種っスね」
「!?」
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